• 悠冴紀

試し読み1:偽りの人生(小説「JADE~表象のかなたに~」より)

更新日:2021年10月9日


ブリュールのテラス(ドレスデン)

  プロローグ


     *  * 「自分を信じられないなら、私を信じて」  窓を伝う雨水のようなしっとりとした質感で、彼女の声が記憶の河を流れていく。女性にしてはトーンの低い、落ち着いた声だ。  Jは今、ベルリン郊外の墓地を訪れ、十数年前に存在を抹消されたある一人の男の墓を見下ろしていた。  改めて振り返ってみると、偽りの人生は多難だが気楽だった。己の感情を切り離して、ただすべきことをすればいい。だが一旦ホンモノの人生が動き出すと、そうはいかない。誰にも踏み入られないよう封をしていた場所から、自分の最も無防備な部分を引きずり出してきて、剥き出しの状態で対峙しなければならないからだ。自分のような人間には無縁だと思っていた、不慣れで不得手で濃やかな現実の数々と。  ニセモノのままで終わる人間は、そこから逃げ出した者たちだ。自身のコアを揺るがすような深刻なダメージは免れるが、何の進歩も進展もなく、何も得られずにただ終わる。

 信仰心もないのに十字架をかたどった眼前の墓石には、無数の名を使い分けながら生きてきた彼自身の元の名前、ゾラン・ブラゼヴィッチの名が刻まれている。  そこは彼が最初に自分自身を殺した場所。以後、必要に駆られて何度となく、新しい自分を築き上げては、また殺してきた。ただし、自らの意志でそうしていたからには、ちゃんとコントロールできていた。望めばいつでも元の在り方を思い出すことができたし、いつでも元通りの立ち位置に戻ることができた。  だが今は勝手が違う。他の誰かとの関係によってアウト・オブ・コントロールに陥るのは、これまでの経験上例がない。

 ……何かが狂ってしまったのだ。  どうやらついに、礎もなければ道標もない未踏の領域へと、迷い込んでしまったらしい。  ただ、それでも──。  Jはその無機的なまでに整った顔を上向け、翡翠のような深いグリーンの瞳で、ふと空を仰いだ。主義だの美学だのイデオロギーだのと、物事の都合の悪い側面に思考停止する視野の欠けた状態でしか保ち続けることのできない幻想のために、無数の黒い歴史を刻んできた大地を、ずっと昔から見下ろしてきたアッシュブルーの空だ。  ……そうだ。それでもやはり…。  その身に起きた一連の出来事を振り返って、Jは整理のつかない混沌の中にも、ある一点についてのみ確信した。すべてをなかったことにしたいとだけは、尚も決して思わない、と。今この足元に眠るのは、どんな偽りや幻想の結果でもなく、皮肉にも、真実の相手を得た結果なのだから。たとえその果てでどこへ漂流し、身を亡ぼすことになろうとも──。

       *  *

【数ヶ月前】

 エーゲ海が形作る塩の結晶のような白亜の建物が、一面に広がり視界を埋め尽くすアテネの街並みは、昼間なら青空とのコントラストで眩しいほどだが、丘の上の教会や神殿や点在する古代遺跡がひそやかにライトアップされる夜になると、全く違った様相を呈してくる。こと経済破綻で年々治安が悪化しつつある今は、廃業して灯りの消えた商店に代えて、裏社会の地下活動が活気を帯びる。

 そんな古代都市アテネの夜を、Jは地元出身の武器商人レカスのバンの中から眺めていた。街のベースカラーとは対照的な黒い髪とダークグレーの服装が、鋭いディテールを持つそのシンメトリックな顔を、夜の闇に違和感なく馴染ませている。

「──それにしても、先日のヘリでの出迎えには驚かされた。派手好みだが、おかげで助かった」

 Jが視線を車内に戻し、向かい合わせの席にいる背格好の似た金髪の男、ミロシュに向けてそう投げかけると、罵声が返ってきた。

「勘違いするな! お前のためじゃないさ、ウスタシャ!(=ナチ傀儡政権時代のクロアチアのファシスト組織)」

「……俺は礼を言っただけだが?」

 聞く者にヒヤリとした緊張感を与える持ち前の低い声で、Jが言った。

「馴れ馴れしく話しかけてくるなと言っているんだ! 同じ空気を吸っているだけでもヘドが出る!」

 今にも殴りかかりそうな勢いで突っかかってくるそんなミロシュを、レカスが脇から止めた。

「よさないか、ミロシュ! 何をやっている!」

 五十代半ばの日焼けした顔に険しい表情を浮かべながら、レカスは言った。

「我々は皆ビジネス・パートナーだ。政治的因縁を持ち込むことは、この私が許さない!」

「俺ははじめからそのつもりだった」

 Jが澄ました顔でそう言葉を挟むと、ミロシュは席を立ち、Jの胸倉に掴みかかってきた。

「あれはただの政治じゃない! お前らは人間性の根本から腐っているんだ!」

「よせと言っているんだ!」

 レカスがついに怒声を上げ、ミロシュを力ずくでJから引き離した。

「私が身内の裏切りにあって警察の連中に囲まれたとき、私を危機から救い出したのは、このブランカだ! 彼に手出しすることは、断じて許さん!」

 今は“ブランカ”の名で知られ、レカスの信用を得ているJは、無言で襟を正すと、相変わらずの沈着とした様で腕を組み合わせて静止した。

 どうにか感情を抑えて座り直し、拳をしまったミロシュだったが、Jを睨んだまま「貴様は信用できない。俺が見張っているからな。おかしなマネをしやがったら、脳天をブチ抜いてやる!」と吐き捨てた。

 自分より二十は若いそんな二人のやり取りに、レカスは呆れて溜め息をついた。

「──全く、一体いつからそうも啀み合うようになったんだ。はじめはうまくやっていたじゃないか。兄弟のように親しくしていたのに…」

「こいつがクロアチア野郎だと知ったときからだ! 同胞だと思っていたのに、騙しやがって!」

 ミロシュのその一方的な物言いに、Jはギラリとした光を放つ眼球だけを動かして、冷やかに彼を一瞥した。

「俺は同胞だと自称したことは一度もない。少しばかりセルビア語で話しかけてやったからといって、お前が勝手に誤解したんだ。それこそいい迷惑だ」

 ついにJまで苛立ちを示しはじめたので、レカスがまた、間に割って入った。

「私のバンで民族紛争を再開するな! 我々の仕事には、政治も宗教も国境も関係ない! お前たちの個人的な理由でそれを妨げるようなら、二人とも今すぐ抜けてもらう!」

 Jとミロシュが口を噤み、車内がしんと静まり返った。

 しばらくの間をおいて、レカスが仕切り直した。

「とにかく、今夜は飲もう。仲直りの一杯だ」

 バンが静かに停車して、護衛の男を含む四人は、レカスの鶴の一声で街に繰り出した。不況とゼネストで都市機能が麻痺しつつあるにも拘らず、節約ムードとは縁遠い浪費家たちで溢れ返る夜の繁華街だ。

 だがレカス行きつけの店の前まで来たところで、ミロシュがかぶりを振って言った。

「悪いがレカス、俺はやっぱりこんな奴とは飲めない。たとえあんたの付き合いでもな」

 年齢やルーツの近さゆえか、どことなくJに似た趣きのあるニヒルな顔立ちに、抗しきれない不快感を湛えながら、ミロシュは独りで去ってしまった。

 アテネの闇に消えていく彼の後ろ姿を、困り果てた父親のような視線で見送ったあと、レカスはやむなく、今夜の商談の成立を三人で祝うことにした。Jと護衛の男に地酒のウゾを奢って。アニス独特のスパイシーな香りを漂わせるその液体は、先の見えないハイウェイに立ち込める深い霧のように、グラスの中で不透明に白濁していた。

from 小説『JADE~表象のかなたに~』悠冴紀著

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