• 悠冴紀

試し読み2:見えざる凶器たちの行方(小説「JADE~表象のかなたに~」より)

更新日:2021年10月9日



 Jは彼女を連れて、ハイリガー湖に向かった。異常気象のせいか天候不安定な春の気まぐれか、曇り空で気温が低く、少し肌寒いくらいだったので、今日なら水辺にくつろぎに来る人は少ないだろうと思った。

 新緑が優美に彩る広々とした新庭園の敷地内で、散歩をしている人や写真撮影をしている人、画材片手にスケッチのための場所を吟味している人など、何人かの人達とすれ違いながら、Jと憲玲(ケンレイ)は二人で湖沿いに歩いていた。その間、Jはずっと、今後どう言って彼女を帰らせるか、それまでどう彼女の身の安全を確保しようかということで、頭がいっぱいになっていた。

 一言も喋らないまま、眉間に縦じわを寄せて隣を歩いているそんなJの横顔を、憲玲は瞳の隅で静かに窺っていた。

 同じ新庭園の中でも、ポツダム会談で知られるツェツィーリエンホーフ宮殿のある北側は、観光客が多いので素通りして、二人は南側に回ってきた。ハイリガー湖南端には、ゴシック・ビブリオテークと呼ばれる小ぢんまりとした建物がある。『ビブリオテーク』は直訳すると『図書館』の意味だが、元々プロイセン王ヴィルヘルム二世が、個人所有の蔵書のために建てさせたものだ。その蔵書の殆どが1930年代に王城へ移された上に、1945年の戦火で焼失してしまったため、現在は当初の名前が残るのみとなっている。

 ゴシック礼拝堂様式で造られたその建物の一階部分は、5、6メートル四方の外壁を、一面につき三つずつ釣鐘型にくり抜いたような、石造りの尖頭アーチの柱廊に囲われている。その上に、螺旋階段で繋がる八面体の二階部分が収まり良く載っていて、ちょっとした休憩処という佇まいだ。

 水辺にひっそりと佇むその建物の傍までやってきたとき、憲玲がちょうどいい高さの石段を見つけて、腰を下ろした。座って左側には、草木に縁取られるハイリガー湖が開け、対岸には、白い大理石宮殿が小さく見えている。

「あなたも座ったら?」

 無言のまま突っ立っていたJを見上げて、憲玲がそう勧めてきた。

「空の長旅で、疲れが出てきたか?」

 一度はそう反応したものの、Jがなかなか座る気配を見せず、何やら一人で考え込んだまま相変らず石のように静止していたので、憲玲は彼の腕を軽く掴んで引っ張った。

 ようやくJも自分の付き合いの悪さに気がついて、彼女の隣に腰を下ろした。足元に広がる、手入れの行き届いた芝生を踏みしめながら。

 その時だった。憲玲が出し抜けに、目の覚めるような発言をした。

「ここなら、人気がないし周りを見通せるし、不自然な動きでこちらを監視している人が潜んでいたとしても、すぐにわかるから安心よね」

 不意を衝かれたため彼女の言いたいことをすぐには理解できず、Jは一瞬絶句した。だがまもなく、顔を向き合わせるなり確信的な目つきでこちらの目を見入ってきたその表情から、直感した。彼女は何かに気付いている、と。

「仕掛けを施しやすい屋内とは違って、ここなら盗聴の心配もない。そうでしょう?」

 Jは耳を疑って訊き返した。

「今、なんて言った……? 盗聴?」

「そう、さっきもレストランの中で、こっそり盗聴器を探していたでしょう? さりげなくテーブルの裏側を触ったりして」

 彼女の観察眼の鋭さ、目ざとさに改めて驚異的なものを感じつつ、Jがどうにかこの場を切り抜けるための言葉を探していると、憲玲が「いいのよ、もう隠さなくても」と先手を打ってきた。口の端に、いつかの彼女を髣髴とさせる含みのある笑みを浮かべながら。

 それから彼女は、しなやかな白い腕を左右からスッと伸ばして、抱きつくような体勢になった。


「あなたが本当は何者だか、私はたぶん見抜いている」


 Jの首回りに腕を回し、頬の触れ合うギリギリのあたりにまで顔を寄せて、彼女はJの耳元に囁きかけてきた。

 さすがのJも驚きを隠せず、ただただ固まってしまっていた。

「ここなら大丈夫だとは思うけど、念のために、こうして親密な仲を装って小声で話しましょう。どこかから見張られていたとしても唇の動きを読まれずに済むよう、できるだけ口を動かさずにね。あなたは用心深い人だから、こうでもしないと事実を話してくれないでしょう?」

 言い知れない緊張感が、辺りに漂った。

 あまりにも想定外のことで、Jには悪い夢だとしか思えなかった。

 ……そんなはずがない。いくら憲玲が勘の鋭い女だからといって、そこまで見抜けるはずがない。

 そんなJの思いをよそに、彼女はどんどん話を核心に近づけていった。彼の耳に唇が触れる寸前の近さで、静かに息遣いを伝えながら。

「本当言うとね、日本で組んでいたときから、薄々感づいていたの。あの時点では、どこの国の所属なのかってことまではわからなかったけど、今はそこのところがはっきりしたものね。あなたの帰省先は、ここドイツだった。この国にあるそういう機関と言ったら──」

 まさか、……そんなまさか!

 せめて皆まで口に出しては言わず、仄めかす程度で止めてくれることをひたすらに願ったJだったが、彼女の次の一言で、打ち砕かれた。


「あなた、BND(ドイツ連邦情報局)の諜報員だったのね?」


 Jは、かつて例のないほど無防備に青ざめた。

 有り得ないことだと思った。仕事に関係のないプライベートの場で、こんな風に誰かにズバリと言い当てられてしまったことなど、経験がない。

「あなたの口から打ち明けてほしかったから、何度か鎌をかけてみたんだけど、やっぱり余所者の私には、教えられない? この状況でも?」

 返答に詰まり、Jは黙りこくっていた。妙な緊張感がまた二人の間に立ち込め、返答を待つ彼女の沈黙が、今のJには耐え難いほどに苦しかった。

「……憲玲?」

 しばらくの間をおいてから、Jが慎重に口を開いた。

「何?」と憲玲が、その白い顔を軽く斜めに傾けて、覗き込んできた。

「もしこの場で俺が吐かなければ、拷問にでもかけるか?」

 Jの一言に、一瞬考えがついていかない様子を見せたあと、憲玲は堰を切ったように吹き出した。瞳を細め、Jと間近に向き合ったまま、肩を揺らして笑っている。どうやらJの言葉を、冗談だと思ったようだ。

「そうね、私は手荒よ。それもかなり」

 状況が状況なので無理もないが、今しがた彼女を本気で疑ったJが、自分の疑心暗鬼な実態に疚しさを覚えるくらいに、彼女は本当に全く裏腹のない好意的な笑顔を向けてきた。こんな表情も、以前の彼女には見られなかったものだ。

「手荒…か。そうだろうな」

 自分の言ったことを思い返すと、確かに冗談のようにしか聞こえない滑稽な話に思えてきて、Jも笑いたい気分になった。

 ……やはり彼女は、運悪くこっちの問題に巻き込まれただけだ。持ち前の勘の鋭さと洞察力から、気づいてはならないことにまで気づいてしまった。それだけのことだ。

 Jは改めてそう考え、彼女への余計な疑いをかなぐり捨てた。

「J、安心して。私はこれまで通り、何も知らないふりを続けるから」

 読唇対策のためか、覆い隠すようにJの頬に両手を当て、相変らずギリギリの近さで彼女は言った。

「ただ、私があなたのこと…、作られた姿ではないあなたの真実に、ちゃんと気がついているって伝えておきたかったの」

 そう語ったあと、憲玲は何を思ってか、長い間ただ静かにJの翡翠色の瞳を見つめていた。

 監視の目を欺く『親密な演技』を彼女に任せきりで、自分は少しも協調せず不自然に固まったままだったのだということを、この時点でやっと自覚したJは、自らも両腕を伸ばして彼女の背中に回し、それらしい姿勢を作った。毒気が抜けたせいかもしれないが、以前より更に痩せ細ったように見える彼女を前に、Jの手が、自ずと壊れ物に触れるような手つきになっていた。

 しかし外見はどうあれ、彼女には、どんな状況でも周りの思惑通りにはならない芯の強さがある。そんな安心感を基に、Jはついに割り切りをつけた。

 彼女との間に、嘘は要らない。互いの身の安全のために語れないことはあっても、決して偽りの姿では接したくない、と。


「──それにしても、諜報員って、もっと目立たない人がなるものだと思ってた」

 しばらくの沈黙のあと、憲玲が不意にそう投げかけてきた。一度会ったら忘れられないインパクトのある、Jの鋭い顔を眺めながら。

 いきなり何を言い出すのかと、Jは無言で目を細めた。

「悪く取らないでほしいんだけど、率直に言うと、あなたじゃ一目にただ者じゃないとわかって、警戒されるような気がするのよ。周りを安心させながら敵の懐に入り込むには、無理があるというかなんと言うか……」

 日本にいたときには、背中を向けていてさえ漂ってくる彼独特の闇深さと危うい雰囲気に、皆すっかり萎縮してしまっていた。初対面の相手であれば、何かを企んでいるようにしか見えない彼の侮れない目つきに、不必要な疑いを抱いて警戒心ばかりが膨らんでいったものだ。唯一彼に気後れしなかったのは、同じ裏社会に生きてきた憲玲ぐらいだった。

 当のJは、苦笑しながらこう答えた。

「この世界にも色んな需要がある。俺の場合、捜査機関や犯罪組織に潜ることが多かったから、人畜無害な相貌を作る必要は特になかった。むしろ影の薄い態度でなめられる方が問題だ。仕事にならないからな」

 鎧を捨てて話せるようになったことで、いくらかホッとした様子も見せ始めたJを前に、憲玲は一歩踏み込んだ内容へと進めていった。

「私としては、あなたが公僕の立場だっていうこと自体、目から鱗の事実だったのよ。対教団の情報戦で、やり方がその道の手法だなとは思いつつ、なかなか確信にいたらなかったのも、そこが引っかかっていたからだし」

 一度Jの表情を確かめてから、憲玲は言った。

「官職の中でも、諜報となるとかなり特異な役どころで、アウトローと言っていいくらいだと思うけど、それでも一応は、国家の名の下で動く政府筋の仕事には違いないわけでしょう? 性格と職業とが、結びつかない気がしたのよ。あなたはそもそも、一つの組織に収まる柄じゃないし、どちらかというと、体制とか権威とか、そういう大きな力に警戒して、疑問を投げかける側だと思っていたから」

 憲玲は、Jが体制側だという事実によほど違和感があるのか、間近に向き合ったまま更にしげしげと彼の顔を見つめてきた。

「そのあなたがまさか、一国の威信や利益のために他国と利権の奪い合いをするような組織に身をおいてきたなんて…。それも政治的都合次第では、時に教団と戦ったあなたと同様の、怪物化した勢力に対抗する活動家たちや、どこかの国の人民解放軍を標的に、力を行使しかねない情報機関よ? もちろん、逆にそういう活動家たちに手を貸して、後押しをする側に回ることもあるでしょうけど。時と場合によって、自国の都合次第でね」

 あまりに鋭く的を射た指摘だった。Jは深刻な面持ちで沈黙し、一瞬物言いたげな視線を彼女に向けた。だがやがて、何かの思いを呑み込むようにその薄い唇を結んだあと、重い口調でこう語った。

「期待外れで悪いんだが、現在ある俺の価値観自体、そもそもが無数の過ちの上に成り立つものだ。さんざん加担してきた身だからこそ、数多の教訓を得てこうなった。軌跡をたどれば、矛盾まみれの人間さ」


 ──BNDがJに目を付けたのは十数年前、背中に付きまとう不可避な敵である教団の力を削ごうと、独りで奔走していたJが、教団の下部組織の実態を暴いて潰したときのことだった。

 当時教団は、表向きには孤児院か安価で治療を受けられる診療所、ということにしていたいくつかの海外支部を、将来捨て身のゾンビ兵にするための子供たちを入手する拠点にしていた。それを知った若き日のJは、証拠となる映像や文書を捜査機関に匿名で送りつけ、教団に警戒の目を向けさせた上で、各支部の幹部たちを次々に捕らえて口を割らせ、自白文や供述内容を録音した音声記録とともに、関連施設の正面出入り口に張り付けにした。五体満足とは言えない状態で。

 Jは更に、拷問や洗脳や兵器研究に使われる、入手困難な数種類の薬物を教団に提供し続けてきた闇企業を突き止めて、その密売ルートを断ち切ろうともしていた。その際、ちょうど同じ企業に探りを入れていたBNDの捜査網とぶつかり、一目おかれるようになったのだ。

 だが最初に勧誘の声をかけられたとき、Jは迷わず拒絶した。今しがた憲玲に言い当てられたように、ただでさえ特定の場に帰属するのを嫌う性分だというのに、政治的都合や一国家の利益のためだけに動くような組織とは、関わり合うのもお断りだ、と。

 にべもなく断られて、一見すんなり身を引いたように見えた当局だったが、彼等はその実、Jを諦めてはいなかった。その後一年近くにわたって、綿密にJの人物調査をし、しぶとく彼の動向を観察し続けていたのだ。

 やがてJが、多勢に無勢な教団との攻防戦に疲弊し、経済的にも逼迫して、切実に大きな転機を欲するタイミングを見計らって、当局は再び声をかけてきた。我々なら必要なものを与えられる。証人保護さながらに過去を抹消して、教団に突き止められる心配のない別人の人生や架空のIDを手配することも、容易にできる。我々にはその力があるのだから、と。


「人間の判断に狂いが生じ、らしからぬ方向に身を落としていくきっかけは、大きく分けて三つある。明日を暮らす金に困ったときと、背中に負った厄介事が許容範囲を超えて、余裕を失くしたとき。そして最後に、受け入れがたい現実に直面して、頑なな拒絶に陥ったときだ」

 Jが言った。

「俺が無縁なのは、三つ目だけ。どこかの宗教信者と違って、不都合な事柄にも目を伏せないのが俺の強みだからな。だが明日の生活に必要な稼ぎを得られて、当時の形勢不利な状況を脱することができるなら、あの頃の俺は何でもやった。目に見えて明らかにマズいとわかりきっている釣り針付きの餌でさえ、美味そうだと錯覚するほど切羽詰まって──」

 後ろ盾のない単独者として戦うことの限界点、とでも言うべきか、あのときだけは、BNDの提示する条件や組織力が、実際以上に良く見えた。その筋でしか身につけられない技術や知識も、捨てがたいもののように感じられた。この機会を逆利用して、彼等から吸収できるものを吸収しておけば、いつか教団の問題を解決して自由を得るための強力な武器として活かせるかもしれない、と。

 生き抜くために必要なものを得る代わりに、ついに官憲の手先と化して情報戦の道に踏み入ったJだったが、表社会のルールにがんじがらめな他の政府機関とは違い、独自のルールで法の裏側をひた走り、禁じ手もいとわない当局のあざといやり方は、彼の気質にピタリとハマり、特注のスーツのような違和感のなさだった。気づけばある時期から、そんな裏社会の血生臭い攻防戦や自分自身のどす黒い人生に、快感を覚えるまでになっていた。

 この薄汚れた世界では、誠実さや良心など、敵に付け入られる弱みでしかなく、恥ずべき未熟さに他ならない。純粋さもまた、敗者の言い訳。大昔から謀り合いや殺し合いの歴史を繰り返してきた人類の一員として暮らす以上は、より汚く、より冷酷になるが勝ちだ。

 そんな倒錯した倫理観に生きていた。

 その種の勝利の先にあるものが、実はミイラになったミイラ取りだけが行きつく魂の無縁墓地なのだとは、知る由もなく。

「──人間性に目覚めるのが、少しばかり遅すぎた。気付いたときには、心身ともに手遅れなほど腐りきっていたし、未だ闇の側に片足を突っ込んだまま、抜け出せずにいる始末だ」

 引退の条件として課せられた最終任務だったとは言え、つい先日も手を汚してきたばかりのJは、一度足元の影を睨んだあと、憲玲に視線を戻して言った。

「こんな男は、軽蔑するか?」と。

 憲玲はそれを受けて、「私が誰だか、忘れたの? あなたをそこまで追い詰めたパラノイア教団と契約を交わし、人の命を奪ってきた元殺し屋なのよ?」と苦笑した。

「J、あなたの組織は確かに、政治権力との結びつきでとんでもない領域に陥ってしまったり、目的が霞むほど卑劣な手段を使ったりして、しばしば疑問視されることがあるでしょうけど、だからと言って、私は決して批判しているわけじゃないのよ。本当に軽蔑されるべきなのは、私のような人間の方。あなたがリクルートされた先は、それでも一応マフィアやテロ集団なんかとは違うんだから。どういう形で魂を売り渡してきたにしても、あなたはあくまで捜査官。犯罪者じゃない」

 そんな憲玲に、Jはかぶりを振って言葉を返した。

「憲玲、お前、俺の関わり合ってきた組織が、どんなものだかわかっているのか? ただの密偵集団じゃない。元をたどれば、ナチス戦犯の寄せ集めで立ち上げられた組織なんだぞ。そんなものが、他の多くの秘密組織と同じように力を持って、裏で独り歩きを始めでもしたら、どうなると思う? イスラエルのような諜報大国に比べれば、規模は極めて弱小とは言え、そのリスクは計り知れない。終わったはずの史上の害悪に、再燃の足がかりを与えるようなものだ。単なる一組織の腐敗や暴走とは、まるで意味が違ってくる」

 ドイツには、防諜や過激派監視といった国内での活動を担当するBfVや、軍事情報活動担当のMADなど、他にも情報機関と呼べるところがいくつかあるのだが、BNDの前身であるゲーレン機関は、Jの語った通り、元々冷戦時代に対ソ連情報を引き出す目的で、アメリカに利用価値を見出され裁きを免れたナチスの残党が、CIAの後押しで興した機関だった。まさに時代の混乱に生じた隙間に居場所を見出し、“毒を制する毒”として発足した一例なのだ。

「すべてを承知の上で、俺は契約を交わした。どこをどう取っても有罪だろう」

 Jはいかにも彼らしく、何一つ言い訳材料にすることなくそう斬り捨てた。

「だけど、創設当初と今とでは、時代背景がまるで違うでしょう? 人員も入れ替わって、組織の指針も大きく変化してきたはず」

「……」

 一瞬返答に詰まったあと、憲玲の言葉に転機を得て、Jはどうにか話をグレー・ゾーンへと移していった。

「確かに…、それはそうだ。時代の移り変わりとともに当局の在り方自体が見直され、ある時期から徹底して反ナチ化が進められたから、今は当時とは別物と言えなくない。だがそれだけで、当局のような組織を正当化することもできない。冷戦終結によって、いの一番の敵だったソビエト共産主義の脅威を失くして以来、改めてまた存在意義を疑われるようになったしな。その不透明性と発足の経緯ゆえに、自国民にさえ不気味がられ、以前にも増して警戒されながら」

 一呼吸おいて、Jは少しばかり個人的な意見も添えておいた。

「──それはそれで、皮肉な話だとは思うけどな」と。

「さながら兵士の末路さ。乱世においては切実に必要とされた見えざる凶器たちが、責務を果たして目指した平和を手に入れると、途端に白眼視されて居場所を追われるハメになったんだからな。用済みになって尚、その内側に黒い力を保ち続ける危うい存在として」

 話の途中で、憲玲の髪が風に吹かれて目にかかるのが見えたので、Jは殆ど無意識に手をやり、彼女の髪を整えていた。

「時の革命軍やレジスタンスなんかも、その意味では同じだ。歴史をさかのぼれば、独裁政権打倒のために結集した抵抗勢力だったり、民意を代行して立ち上げられた活動家グループだったりしたものが、やがて時代の移ろいの中で役割を失くし、力を持て余した結果、マフィアやネオナチまがいの新たな脅威と化していった、なんていう実例が、世には溢れ返っている」

 日本でJが招集した地下グループも、Jがきっぱりと解散宣言をせず、あのまま留まり続けていたら、同じ一途をたどっていたかもしれない。打倒教団という最大の目的を果たしてしまえば、あとに残るのは、武器としての宙ぶらりんな手段と、存在意義を失くし無法地帯と化した枠組みだけ。そんな枠組みを維持すること自体が目的としてすり替わり、そのために手段を行使し始めたらどうなるかは、明白だ。

「ようするに、結成当初の目的がどうとか、体制側か反体制側か、なんていう区別は大した問題じゃないってことさ。集団的なる力はそれ自体、明確な敵や解決すべき問題を得て初めて需要を得る、一種の武器だ。それだけに、どんな組織もどんな枠組みも、行き着く果ては皆同じ。明日の平穏を脅かす、治世の奸賊なのさ」

 醒めた目つきでJがそう括ると、しばらく黙って耳を傾けていた憲玲が、思わぬ切り返しでこう投げかけてきた。

「でも、だからこそ、何かの組織や集団社会から離れた別な場で、誰かと個人的に血の通った関係を育んでいったり、敵を作らなくてもできる事柄の中から、それまでにはなかった目標を見出したりすることが、大きな意味を持ってくるんじゃない?」

 Jの目をじっと見つめて、彼女は続けた。

「あなたの視点がすでにある、あらゆる枠組みの外側で、自分なりの価値を再構築するの。破壊者時代の自分とはまったく異なるカラーで、続く道を彩って、気持ちだけでなく実際に。それが本当の意味での乱世の終結、第二の人生に向けての第一歩ってものなんじゃない? それを見出した人、その変化を受け容れられる人なら、やり直せる。たとえ無力な単独者でも」

 だがそこまで語ったところで、彼女は自分の膝のあたりに視線を落とし、こうも加えた。

「……と言っても、私みたいに、今更何をやっても償いきれない前科者の話じゃ、バカみたいに聞こえるかもしれないけれど」

「バカなものか」Jが間髪を容れずに言葉を返した。

「正直言って予想だにしなかったことだが、お前の口からそんな言葉が聞けるようになって良かった。本当に」

 改めて、彼女がもう以前とは違う、手痛い経験に学んだ多くの戒めを道標に、新しい状態、新しい“相”へ転移したのだと、Jはひしと実感していた。かつて『死神』と恐れられたあの彼女と同一人物なのだということを、時おり本気で忘れそうになるほどの驚くべき大転身だが、普通の人々とはかけ離れた道を歩み、他の誰にもない底力を得た彼女だからこそ為し得たことなのだと思うと、十二分に納得がいく。

「俺は未だに血生臭い世界を出られずにいるが…、お前はすでに一歩先に踏み出したんだな。記憶に生き続けるかの人物が、やっと本当の意味で終わらせてくれたわけだ。お前の乱世を」

 Jが明らかに黒木のことだけを指してそう語り、まるで自分と彼女との住む世界が、今ではすっかり違ってしまったかのように表現したのを受けて、憲玲が一瞬、寂しげな視線を向けてきた。少し距離のある物言いたげな眼差しで、言葉にならない複雑な思いを込めて。

 ちょうどその時、水鳥の飛び立つ音が聞こえたので、音に気を取られ湖の方に注意が逸れていたJは、自分の横顔に注がれるそんな彼女の視線に、気が付かなかった。

 すぐ目の前に存在し、職業上のベールをも脱ぎ捨てて、やっとまともに向き合ってくれるようになったというのに、壁を作って自分を隔離したまま、本当の意味では歩み寄ってくれないJを前に、一度小さく溜め息を零すと、彼女もやがて湖面へと視線を逃がした。不安定な曇り空の下の湿っぽい大気の中で、沈黙だけを共有しながら。


       *  *


 湖を離れて新庭園から出ると、Jは憲玲を連れて、再会を果たした地点に戻ってきた。

「何故だか俺がここに連れて来られて、お前がこの場所にいたということは、近くにホテルを取っているってことだよな?」

「ええ。彼女の手配してくれたところにね」

「彼女? レオニーのことか?」

 車道を背にしてJと向き合い、憲玲は黙って頷いた。

「やはりそうか……」

 しばらく顎に手を当てて考え込んだあと、Jは、日本で活動仲間たちに指示をしていたときと同じキビキビとした口調で言った。

「荷物を取ってくるんだ。ホテルから引き揚げて、どこか別のところに移動しよう。あいつの手配した部屋には、おそらく監視のための仕掛けが色々と施してあるだろうからな」

「勝手にそんなことをしていいの? あなたの立場が悪くならない?」

「俺の心配はいい。とにかく荷物を──」

 Jの言葉が途切れ、何故か急に表情が険しくなったので、憲玲は彼の顔を覗き込んだ。

「どうかした?」

「…憲玲、悪いが予定変更だ」

 それからJは、低い声で囁いた。「尾行されている」と。

 憲玲は、振り返ったり相手を捜したりする素振りはあえて見せず、全身の動きをピタリと止めて視界だけを広げると、パノラマ風に捉えた風景の隅に、それらしき対象を確認した。確かに、同じ道沿いの自転車専用信号機の陰から、自分たちを見ている不審な人物が二人いる。上着の隙間から腰の銃を覗かせて。

「合図したら走れ。絶対に俺から離れないように、ついてくるんだ。いいな?」

 憲玲は声をたてずに、瞬きだけで了解の意を示した。日本での日々を再現するかのように。

 何も気付いていないふりをして自然な足取りで、二人は今いる歩道をいくらか進んでいった。そして崩れた灰色の塀を持つ旧い建物の角で右に折れると、Jが言った。


「走れ──!」



from 小説『JADE~表象のかなたに~』悠冴紀著

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