• 悠冴紀

試し読み3:継承者 〜活動家たちのリング(小説『JADE〜表象のかなたに〜』より)

更新日:2021年10月9日



 Jは、現在の仕事場である訓練施設へと向かう前に、グルーネヴァルトの持ち家に立ち寄った。この前憲玲と一泊したとき、置き忘れてきた腕時計を取りに戻ったのだ。

 だがJが、GPSを無効にした車で敷地内に乗り入れたとき、思いがけず門の手前にランゲ大佐の姿を認めて、眉をひそめた。大佐は何故だか懐かしむような郷愁の眼差しで、屋敷の方をじっと眺めて立っている。

「大佐、こんなところで何を……?」

 この場に立っているのが他の下っ端工作員だったなら、例によって上の命令で自分や憲玲の居所を探りにきただけと思うところだが、大佐が自らやってくるからには、何か別の理由があるはずだ。

 Jはひとまず、彼の出方を窺うことにした。いつかと同じように、二、三歩距離を保ち、斜め後ろから慎重に。

 大佐は、屋敷の方を向いたまま、ふとこう投げかけてきた。


「私が君を見出したのは、ただの偶然だと思うかね、ヴァイス?」と。


 Jの反応を待たずに、彼は続けた。

「あれから…、君を引き入れてから、早くも十数年が経つんだな」

 彼の視線が記憶を遡り、過去へとシフトしていくのを、Jは見て取った。

「君にとってはカビの生えた話かもしれないが、まだこのベルリンに壁があった頃、私は東側にいた親族を逃がすために、あの手この手で亡命計画を企て、活動家グループに働きかけていた」

 大佐との付き合いは長いが、彼自身のこうした個人的な話を聞くのは、Jには初めてのことだった。

「そんなとき、知人の活動家の一人を通して、私はある資産家の存在を知った。彼は欧州にファシズムの嵐が吹き荒れていた若き日々を、反ナチの地下活動に費やしてきた人物だった。その後訪れた冷戦時代には、自ら築き上げた富を活かし、対東側の問題に取り組む人権団体を陰から支援していて、その道の人たちの間では、一種伝説的な存在となっていた。私の知る活動家たちの中にも、東側当局に付け回されていた危ういところで彼に救われ、匿ってもらったという者が何人かいる。彼が国内外に保有していた複数の別宅は、そのためのシェルターのようなものだったんだ」

「──それで俺にあんな依頼を…? 継父との関わりがきっかけで?」

 伝説の資産家とやらの名を聞きもしないうちから、Jが驚く素振りもなくそう反応したので、大佐はさすがだというようにニヤリとした。

「やはり気付いていたのか、彼がそういう人物だと」

「……確信はなかったが、あの世代にしてあの性格だ。容易に察しはついた。ファシズムやその他の歪んだ体制の脅威については、生前俺の前でも語っていたしな。しかも俺は、あちこちに点在する彼の別宅で転々と暮らしてきた身だ。屋敷の奥にある古びた隠し扉の痕跡や、地下通路へ抜けるワインセラーの秘密に気付く機会も、当然あった」

「入念に封印された秘密だ。凡庸な観察眼の持ち主なら、見つけられなかっただろうがね」とコメントしてから、大佐は再び過去の記憶を手繰り寄せた。

 冷戦時代の親族救出作戦の過程で、東側という共通の敵を持つBNDの接触を受け、度々当局の手を借りてきた大佐は、軍役を経たのち、BNDに入局するに至った。BNDには、国内外の活動家やその関係者たちに関する膨大な量の情報が保管されている。そこで、それまで闇に埋もれていたかの資産家ペーター・シュルツ氏に関する極秘の記録を閲覧する機会を得た大佐は、今更ながらに彼への興味が再燃した。

 さながら彼についての論文でも作成するかのような勢いで、独自に調査を進めていった大佐は、その延長上で思いがけず、晩年の彼の周りに現れた謎の母子の存在に突き当たった。はじめのうち、歳の差が開きすぎているその若い妻と、とても十代半ばの少年とは思えない侮れない眼をした連れ子Jのことを、天涯孤独な老富豪の財産を狙う怪しげな母子と見なしていた大佐は、化けの皮を剥がしてやるつもりで探りを入れ始めたのだが、息子の方の動きに、かつての自分や他の活動家たちの動きに近いものがあることに気が付いた。

 そこで大佐は、稚拙な自分探しや手前勝手な憂さ晴らしから過激な行動に出る現代のエセ活動家たちとは違う、逃れようのない時代の潮流の中で人間尊厳のために奮闘してきた本物の活動家たちを、ずっと昔から擁護してきたシュルツ氏の判断を信じ、ひとまず遠くから静観することにした。

 シュルツ氏亡きあとも尚、何故だかJへの関心を保ち続けていた大佐は、仕事の合間を縫ってその動向を窺ううち、次第に見えてきた。各国に遺された継父の別宅を転々としながら、何やら胡散臭いカルト教団を相手に独りで奮闘しているJの実態が。


「──君を見ていて、思ったんだ。君はおそらく、シュルツ氏が選んだ最後の活動家。その道の素質をふんだんに秘めた金の卵として、彼が築いたすべてを託されたのだろうとね」

 そんなJをどうにか得たいと望み始めた大佐は、JがBNDの数ある監視対象の一つだった闇企業に斬り込もうと乗り出したときに、好機と見て接触を図った。前々から個人的に関心があったのだと覚られて警戒されないよう、J本人に対しても当局に対しても、真意をひた隠しながら。

「君なら任せられると思った。あの役目をこなせるのは、君をおいて他にはいない。君であるべきだと──」

 大佐の視線が、目の前のJの視線を正面から捉えた。

「私にとって未だ謎なのは、何故君がこんなにも長い間私のもとに…、いや、当局に留まってきたのかという点だ。あの依頼はあくまで一時的な契約。君自身も確かに言っていた。『手下にはならない。互いに必要を満たし合うために手を組むだけで、ギブアンドテイクの一時的な付き合いだ』とね」

 一呼吸おいて、大佐は続けた。

「一所に居つかない君のそれまでの生き様と性格からすれば、契約範囲内で一仕事終えた途端、ばっさり我々を切り捨てるものと思っていたのに、君は、教団の脅威から解放され、当局の後押しを必要としなくなった今も尚、ここにいる。第一線から退き、教育課に転向したとは言え、当局を蹴って姿を消すのとはわけが違う」

 Jは何も答えず無言のまま、ただ静かに耳を傾けていた。

「私個人的には喜ばしい限りだが、不思議でならないんだ。全く、かのシュルツ氏にも増して、君こそが最大の謎だよ」

 何かを探るようにじっとJの目を見ながら、大佐は今一度問いかけた。

何が君を引き止めてきた、ヴァイス? いや、ゾラン。我々は君を拘束してきたわけではない。何かの弱みに付け込み、脅して留めてきたわけでもない」

 するとJは、その切れ長の目を疑わしげに細めながら、大佐を見やった。

「その発言は問題だな。是が非でも弱みを持たせて俺を得ようと、当初あの手この手で裏工作を仕掛けてきたのは、一体誰だったか──」

 ハッと目を見開いて、大佐は気まずい表情を滲ませた。

「……そのことにも気付いていたのか」

「気付かないわけがないだろう。当局が俺に興味を示し始めた途端、それまで俺が少しずつ切り崩して売り捌いていた継父からの相続物に、急に買い手が付かなくなったんだからな。俺がその後の人生を自由に暮らしていけないよう、まともな職にすらつけないように、裏から『誰か』が手を回して、頻りに道を塞いでいた。BNDへと繋がる一本道を除く、すべての道をな」

 そう、大佐はJを引き入れるために、あえて経済的に逼迫させて、単独者としての限界を思い知らせると同時に、Jが切実に、教団に劣らぬ何かの組織力を必要とするよう仕向けたのだった。そうでもしなければ、正攻法では得られない相手だと思ったから。

「し、しかし、知っていたならますます疑問だぞ。何故そんな私のもとに、今の今まで留まり続けたのか」

「あんたが個人的にどういうつもりでいようと、人物調査の過程で浮上した俺の数々の脛の傷を、みすみす見逃す当局じゃない。あんたの小細工で収入源を奪われて以来、俺は食っていくため、活動資金を稼ぐために、やむなくそこらの犯罪組織や詐欺グループから金を掏りまくってきたしな。俺が組織から逃げ出そうものなら、当局はすかさずそれを脅迫材料にしたはずだ。言う通りにしなければ警察に突き出すとか、俺に金を盗られた連中に直接犯人を教えてやる、とか言ってな」

 腰に手を当て、安定感のある脚力でしっかりと地面を踏みしめながら、Jは続けた。

「それでなくとも、俺は元々あちこちの国に不法入国して逃げ延びてきた流れ者の身だ。当局に目をつけられた時点から、どういう待遇が待ち受けているかは明白だった。最初のあの依頼を受けたのも、どの道すでに退路を塞がれ逃げられない身なら、とにかく良回答で応じるのが賢明だと思ったからだ。弱みを握られ脅してこき使われる奴隷としてではなく、能力を買って引き抜かれたビジネスライクな傭兵として」

 継父からの相続物を資金源として必要充分に活かすことができていれば、もっと早くに解決できたかもしれないJの地下活動を、故意に妨げ遅延させた身でありながら、四面楚歌で余裕をなくして困っていた彼に仕事と居場所を与えて救ってやった、ということにして都合良く味方に引き込みたがっていた当局を、Jは丸めこまれたふりをしながら逆利用してきたのだ。

 ちなみに、ナポリの持ち家だけがあっさり売れたのも、偶然ではなかった。ちょうどその時の買い手が当局の関心のある要注意人物で、居所を押さえて監視していくのに都合が良かったので、当局はあの家の売却時だけは妨げなかったのだ。

 だが更に言えば、そういう人物がJの持ち家に関心を示したこと自体、実は偶然ではない。教団の破壊計画の実行日が刻々と迫りつつあった当時、Jには日本での地下活動を本格化させるために、切実にまとまった資金が必要だった。だから当局が興味を示しそうな人物を選んで、自分から接触しかけていったのだ。もちろん、その相手にも当局にも意図的だと覚られないよう、偶然を装って──。

「やはり君は、返す返すも隅にはおけない男だな。一見どんなに不利な状況でも、事を有利に運ぶすべを心得ている」

 お見それしたとでも言うように、大佐は軽く肩をすくめた。

「だがそれでも、私はまだ納得していないぞ。君なら、本気で望めばいつなりと当局の手を振り切り、逃げられたはずだ。脅されようと責められようと、押さえ込まれるような人間じゃない」

 Jはそれには答えず、質問に質問で返した。

「俺を質問責めにする前に、いい加減こっちの疑問にも答えたらどうだ?」

 首をひねって「どの疑問だね?」と訊き返す大佐に、Jは単刀直入に投げかけた。


「憲玲を呼び寄せたのは何故だ?」と。


 すると大佐は、Jから屋敷の方へと視線を移して、神妙な顔つきでこう答えた。

「せめてもの罪滅ぼし、とでも言っておこうか」

 屋敷を囲う柵に手を載せて、大佐は語った。

「時代が違えば体制と反体制の立ち位置も大きく違ってくるとは言え、私は元々、反体制活動家たちにとっての守護神だったシュルツ氏への敬意をきっかけに、君に興味を持った身でありながら、この道の仕事で染み付いた汚い手を使って、君を体制側のカオスに引き入れた。そろそろ君を解放すべきときだと思っていたし、できれば教育課への異動を認めるだけでなく、もう少し色をつけて、君から奪った年月を返したかったんだ」

「柄にもなくしおらしいそんな話を、この俺が真に受けるとでも?」

 Jのその醒めた切り返しで、大佐がまた、持ち前の豪傑風の顔に含みのある笑みを浮かべて見せた。

「実際、君にとって、彼女は失われた十数年にも優る存在だろう?」

「ごまかしても無駄だぞ。ひょっとして、俺が教団の開発した生物兵器を当局に持ち帰らず、処分してしまったことを根に持っているのか? あんたのパワー・バランスの理念を知りながら、非協力的な行為だったと、処罰のつもりで憲玲を──」

「そうだとしたら、君にとってはずいぶん幸運な処罰だな。本来ならむしろ、外国人に警戒する当局の妨害で遠ざけられるはずの彼女を、堂々と招き入れられたのだから」

 Jの言葉を途中で断って、大佐はそう言葉を返した。

「そりゃあ確かに、まだどこもエアロゾル化に成功していなかったボツリヌスの成功例を、研究記録丸ごと抹消してしまったのは、勿体ない決断だったとは思うがね。あれがあれば、危機管理対策の研究に役立てられただろうし、いくらかは我が国の抑止力の足しになっただろう」

 人の歴史は殺し合いの歴史。どの時代にも世界のどこかで戦争があり、大勢の血が流れている。平和的に暮らせる箇所が存在するとすれば、それは誰かの正義の行いがもたらした良心の勝利ではなく、周りに必要とされる『力』の下にできた束の間の安全だ。

 たとえば、「この国の経済力が破綻すれば、自分たちも共倒れになりかねない。世界経済の安定と秩序のためにも、むしろこの国が富を保持している必要がある」と思われるほどの経済体系を築いていれば、それ自体が『力』として働き、必要ゆえに攻撃対象からは外される。その力が突出しすぎて、怪物視されない限りは。

 あるいは「この国の軍事力が衰えたら、自分たちにとって脅威となる別の国や集団が優位に立ち、猛威をふるいかねない」と思われるような影響力を持ち合わせていれば、敵も多いが味方も増え、自国を守るシールドの強化に繋がる。その場合もまた、強大化しすぎて自国が怪物と見なされない限りは、という条件つきの話なのだが、少なくとも、何のメリットもないからと世界中に見放された弱小国や、代理戦争で力を挫かれた敗戦国のように、無法地帯のまま放置されたり、よその国々に分割統治されて隷属させられる心配は当面ない。そこにまた、『力』の恩恵に預かった一部の人たちが、平和的に暮らす余地が生まれる。

 そうやって人も国も、『力』の傘で血の雨を凌ぎ、戦争と平和の分布図は、その『力』の移り変わりに沿って時期や場所をシフトしていくのだ。

 恒久的な平和をもたらす絶対的に正しい一本道など存在せず、また怪物を一人も生み出さずに済む時代などというのも、存在し得ない。どんな国でもどんな人間でも、きっかけ一つで怪物になり得るし、すべての人間が良心に従った選択をして、この世から暴力や戦争を皆無にするなどということは、実現不可能なユートピアなのだ。

 それが現実だからこそ、どこかの国やグループに力が一極化して独走を許し、世界が司られるような事態を招かないよう、パワー・バランスで力を分散すべきだというのが、大佐の持論だ。複数の怪物候補を睨み合わせ、互いに絶えず監視・牽制し合わせる形で、それぞれの強大化や暴走を封じ合う他ない、と。

 だから大佐は、根っこの部分では人間尊厳に関わる同じ何かを求めながらも、特定の人権団体や反体制活動家たちを支援したシュルツ氏とは違い、一見真逆の立場とも言える体制側の政府機関に身をおいている。放っておいても、自分の国や家族だけが豊かで安全に暮らせればそれでいいと思っている多くの身勝手な人々が、方々からこちらの揚げ足を取り、今にも力を削ごうとけしかけてくるものなのだから、自分はそれに備えて、与えられた眼前の大地と守れるものを精一杯守り、この世の均衡を保つ作業の一端を担えばいい、と……。

 Jに言わせれば、それはそれでどこか独善的な観点と言えなくない。だが、自国の正しさを妄信して世界の警察を気取り、他の国々を悪や敵と見なすのではなく、自国や自組織や自分自身の身分さえも、壮大なパワー・バランスの地図上に置かれた駒の一つと見なした上で、倫理や道徳では動かない政治システムの実態と現実的に向き合っている点で、一応に地に足がついている。

 そしてそんな人だからこそ、万一いつかの時代のように、自国が世界中の平和を脅かす怪物と化そうものなら、大佐は迷わず立場を転じて、内側からその力を削ごうとさえするだろう。Jのような、枠組みの外側の国なき男に対する関心へと繋がるものは、やはりそれなりにあったのだ。


「君が、この国の抑止力を補強するためだけに、自ら進んで殺人兵器をよこしてくると思うほど、私の見立ては甘くない。レオニーを使って、どうにか脇から掏り取ろうとも試みたが、相手が君ではそれも適わないだろうと、半ば諦めはついていたよ。そもそもあのボツリヌスは、君を監視する過程で目に留まった副産物にすぎなかったしね」

 一呼吸おいて、大佐は続けた。

「日本での監視活動の一番の目的は、君だった。君が長年抱えてきた教団の問題をどう処理するのかを見届け、その後当局との関係をどうするつもりなのか、確かめたかった。それだけだ」

 大佐はそこでようやく時計に目をやって、思い立ったように元来た道へと踵を返した。憲玲を招いた本当の理由については、結局定かにしないまま。

 だがその途中、大佐は出し抜けに振り向いて言い足した。

「──立ち去る前に一つだけ断っておくが、私がこの屋敷を『売れない城』にしたのは、不純な動機からではないぞ、ヴァイス」と。

 Jが眉をひそめて続く言葉を待っていると、大佐が今一度、どっしりと佇むペールグレーのシュルツ邸を眺め上げて、言った。

「数ある持ち家の中でも、あのシュルツ氏が最後に過ごした思い入れ深いこの屋敷を、節操のない現代の富裕層に売り渡させたくはなかった。他の相続物をどう扱おうと君の自由だが、この家だけは、君が自分で守り続けていくべきだ。血の繋がりはなくとも、君は彼にここを託された唯一の身内なのだから」

 どこか説教臭い響きのあるその発言に、Jは微かに口許を歪めた。

「まるで後見人気取りだな」

「実際そんな気分だったよ。最初に私が君を見出したとき、君はまだ若かったからね。たとえ精神的成熟度は五十を越える落ち着きでも」

 懐から取り出したお気に入りの葉巻に火をつけ、一度深々と吸い込むと、大佐は「君もそろそろ行きたまえ。教育課は新人に手本を示す場。教官が遅刻しては様にならんぞ」と言い残してから、付近に停めていた自分の車へと歩き去っていった。

 時間に厳格なJは、不測の事態が起きても遅れずに済むよう、常に半時間以上余裕を見て出かけているので、いつも通りの沈着さで何事もなかったかのようにシュルツ邸の扉を開くと、目的の腕時計を取ってきた。シュルツ氏を祖父に、大佐を父親代理に持ったかのような微妙なやりにくさを覚えながら。



from 小説『JADE~表象のかなたに~』悠冴紀著

#小説 #JADE

閲覧数:20回