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悠冴紀著『翡翠の神話』試し読み①

更新日:1月6日


悠冴紀著の小説・文学『翡翠の神話』

 アンティークなアーチ型の窓枠に縁取られたハイリガー湖の風景は、彼女に四季折々の色彩を提供するキャンバスのようだった。若葉色の春、深緑の夏、黄金色の秋、白銀の冬。対岸の中央に白い大理石宮殿を据えながら、音もなく移ろい、日々少しずつ色味を変えていく。彼女の枕元で囁く彼の声に導かれて、静かにゆっくりと時を刻んで。

 とは言え、アニカのハシバミ色の目で実際に見えていたのは、屋敷を囲う郊外の緑と、人通りの少ない道路だけ。ハイリガー湖は、ベルリン南西部のあの屋敷から日帰りで行き来できる近場のスポットではあったが、地理的には隣のポツダムに位置していて、直線距離でも十五キロメートル近く離れている。

 あれは彼と二人で記憶を紡いだ『彼女』だけの、取って置きの風景。眠り続ける彼女の心の目には、きっと湖が見えていたに違いないと、アニカは今も信じている。彼女のベッドのすぐ傍にある、あのアーチ型の窓の外に──。

*  *

 アニカが屋敷に招かれたのは、他ならぬ彼の強い要望からだった。

 それが実に奇妙な依頼だった。

 付きっ切りである女性の面倒を見るよう頼まれたのだが、その女性の名前はおろか、勤め先となる屋敷の場所さえも、「ベルリン郊外」としか教えてもらえず、その日が来れば迎えをよこすので自宅の前で待っていろ、というのだ。介護に不可欠な設備やアイテム、必要知識を備えた医療関係者などはすでに揃っている、だから今後住み込みで仕事をするに当たって、自分の生活に必要なものだけを持参すればいい、と。

 アニカとしては、住み込みであるからこそ、事前にもっと詳しく話を聞いておきたかったのに、訊くな、探るな、屋敷の中でのことを誰にも漏らすな、と禁止事項ばかり多くて、結局手持ち情報が殆ど何もないまま当日を迎えることになってしまった。

 思えば、話を持ちかけてきた雇い主自体、得体が知れない。ルーツ不明の混血顔をした、妙に威圧感のある黒髪の男性なのだが、一番前面に出ているのは、色素の薄いスラブ系のニュアンスで、ここドイツよりも平均気温の低い国の出身、という感じがした。とは言え、言葉は訛(なま)っていないので、移民二世かもしれない。年齢はおそらく三十代半ばぐらいだろう。

 本人は実業家だと言っていたが、肝心の業種はさっぱりわからなかった。彼についてもう少し知ろうと、何気なく質問をする度、冷徹な印象のある薄い唇を固く閉ざし、決まって無言で返された。

 一体どうしてあんな掴みどころのない人物の依頼を引き受けてしまったのだか、アニカは自分でもわからなかった。ただ何故だか、断ってはならないような気がした。……断れなかった。

 仕事の初日、謎の雇い主が約束通り自宅まで迎えによこした車の中から、アニカは不安げに外を眺めていた。フロントガラス越しの景色が、いつの間にか緑豊かな郊外の装いに変わっていた。ただし、単なる街外れの田舎とは訳が違う。ここベルリンでは有数の高級住宅街として知られているダーレム地区の一角だ。運転士も雇い主に似て口数の少ない男性だが、この先の雑木林を抜けたところに、目的のお屋敷、つまりアニカの今後の勤め先がある、ということだけは、訊けば素直に教えてくれた。

 しかしやはり、必要範囲内でしか会話しようとしない寡黙な運転士を隣に、車内の沈黙が息苦しく思えてきたアニカは、側の車窓に少しばかり隙間をあけて、外気を取り込んだ。体感温度はまだまだ冬のそれで、朝晩などはコートやマフラーが手放せないというのに、自然界は着々と芽吹きの準備を進めていて、春の訪れを予感させた。今車窓から流れ込んでくる昼間の外気にも、青臭い若葉の香りがある。

 それにしても、まさか自分がこんな豪邸揃いの一等地で仕事をすることになるとは、夢にも思っていなかったアニカは、正直言って面食らっていた。そしてますます不安になった。あの相貌・風格にして、こんなところに住んでいるからには、雇い主のあの男性は、その道でもかなり上位の存在、つまり幹部やボスといった地位にある可能性が高い。以前彼の姿を見かけた同僚の一人が、彼のことをマフィアじゃないかと疑っていたのが、いよいよ現実味を帯びてきた。まず間違いなく、堅気の存在ではないだろう。

 本当に全く、どうして引き受けてしまったのだろう……。

 今更ながらのそんな疑問を、脳裏にぐるぐると巡らせながら、次第に鼓動を早鳴らせていたアニカの視界の中で、〝緑の森〟ことグルーネヴァルトへと続く雑木林の壁が途切れ、いよいよ建物が一つに絞られた。あそこだ。

 花や庭小人(ガーデンノーム)の置物やデザインフェンスなどで、華やかに装飾された他の豪邸の庭々とは違って、石と土だけの飾り気のない庭に、殆ど黒と言っていい年季の入った濃緑のフェンス。その奥に、石造りの古城のようなペールグレーの建物が見えた。出るものが出そうな、とまでは言わないが、少し荒廃した印象のあるその外壁を蔦植物が這い、ところどころ覆っている。窓は背高くアーチ状で、同じ形状の窓が横に八つずつ並ぶ、どっしりとした四階建ての屋敷だ。

 建物の一部が張り出して、先端の尖った塔のような箇所があるのが、少し違和感を覚える点だった。あとから増築されたものなのか、取ってつけたような感じがする。車を降りてよく見ると、その塔の一番上にある窓に、おぼろげに人影が見えた。屋敷の主が今、あそこにいるのだろうか…。

 現代的に易しくアレンジされる前の、妖しげな童話の世界にでも踏み込んでいくような気分で、アニカはおずおずと屋敷の格子門に近づいていった。

 運転士が車を降りてアニカを門の中へと案内し、物々しい両開きの扉を押し開くと、玄関口に警備員らしき人がいて、アニカの持ち物やポケットなどを入念にチェックした。雇い主はやはり、敵の多い身分なのだと、改めて窺い知れた。

 案内されたのは、例の塔の最上階に当たる八角形の部屋だった。二階までは吹き抜けのオーディオルームになっているとの話だが、上は普通の部屋なのだ。アニカがその部屋の前までやってきたとき、半開きの扉の中から、深みのある低い声が漏れ聞こえてきた。

「ここの居心地はどうだ、憲玲? お前がこういう囲いの檻みたいな場所を好まないのはわかっているが、あのまま薬品臭い病院のベッドにいるよりは、いくらかマシだろう? いつまでもあんなところにいたら、治るものも治らない」

 声質自体には、聞く者をヒヤリとさせる凄みがあるのに、不思議と包容力をも感じられる、聞き心地のいい囁き声だった。

「俺は仕事があるから、ずっと傍にいるわけにはいかない。代わりに、信用のおける身辺警護と世話係を手配しておいたから、当分はそれで良しとしてくれ。世話係の方は、そろそろここに来るはずだ」

 答える声は、一切なかった。先ほどからずっと、話しているのは彼一人。事前に聞いていた通り、相手は今、答えようにも答えられない身なのだ。

 彼が話し終えるのを待ってから、アニカは緊張気味に扉をノックした。すでに半分開いていたとは言え、それが礼儀と思われた。

「入ってくれ」

 アニカが、自分の通れる角度まで扉を押し開くと、ギイッと鈍い音がして、部屋の奥に佇む二人の姿があらわになった。翳のあるシンメトリックな顔立ちが特徴の、黒づくめの服装をした雇い主は、鋭い眼光を持つ切れ長の目でアニカを見やった。睨んでいるつもりはないのだろう。彼にはその鋭さが普通なのだ。

 そんな彼の傍には、上体の角度を調節できる介護用の電動ベッドがあり、東洋の神秘という言葉がこの上なく似合う、黒髪で色白の美しい女性が横たわっていた。意識もなく瞳を閉ざしたまま、ただ静かに息をして。

「憲玲、彼女がお前の世話係、アニカ・ハーゼだ」

 『J(ジェイ) 』 としか名乗ってくれない謎めいた雇い主は、先に彼女の方にそう紹介してから、アニカにも声をかけた。「アニカ、憲玲だ」と手短に。

 アニカが「はじめまして。宜しくお願いします」と、物言わぬ彼女に向けて挨拶すると、窓の縁に腰かけていた彼が、音もなくスッと立ち上がり、アニカのいる出入り口の方へおもむろに歩み寄ってきた。そして、人の上に立つことに慣れていると思われるキビキビとした口調で、言った。

「強引な依頼で、悪かったな。だが安心していい。約束は必ず守る。資格取得なり何なり、そちらが望み通りの仕事に就けるまで、必要な費用はすべて俺がもつ。もちろん、ここでの生活や彼女のケアに必要な費用もだ。幸いこのあたりは雑音も雑念も少なくて、学業に集中しやすい環境だ。空き時間を好きに使って、自分の将来のために活かすといい」

 ──そう。確かにそういう点では、悪い話じゃない。むしろ条件が良すぎて怖いくらいだった。

彼と出会ったとき、アニカは研修生として病院で介護の仕事に就いていた。だが実際にやってみると、想像していた以上に体力的・精神的にきつい職業だと、限界を感じはじめてもいたので、行く行くは美容系の職業に転向して、その道に必要な資格や技術を身に着けたいと望んでいた。そんなアニカにとって、彼の提示してきた条件は、なかなかに捨てがたいものだった。予想外のオプションだったが、こんな閑静な高級住宅街での暮らしというのも、めったにできない体験だ。文句なしの仕事話と言っていいだろう。ただ一つ、肝心の雇い主の素性が知れないという点を除いては。

 問題の彼は、一秒でも長く彼女といたいのか、程なくアニカから離れてベッドの側に戻った。それから、緩やかに波打つ彼女の髪を手櫛で梳かしながら、静かに言った。

「綺麗な髪だろう? 自慢の黒髪なんだ。小まめに手入れしてやってくれ」と。

 こんな状態になって尚、こんなにも愛される彼女が羨ましいと思ってしまうほど、ひたむきな眼差しだった。だが同時に、アニカの目には物悲しい光景にも見えた。何しろこの二人は、引き裂かれたのだから。

 女性がこうなった理由について、転落事故で植物状態になったとしか聞いていないアニカには、詳細な経緯は想像もできない。ただ何があったにせよ、彼女の意識は、おそらくもう戻らない。病院関係の仕事についていたから、それだけはアニカにもわかる。

 彼女が今のような長い眠りについたのは、半年近くも前のことだという。多くの場合、元に戻れるか否かは、最初の一ヶ月が勝負となる。二ヶ月を超えるとその望みは極めて薄くなり、三ヶ月を超えると、たとえ目覚めたとしても、脳の働きに重い障害を残す可能性が高くなり、よほどの奇跡でもなければ完全な回復は望めない。つまり彼女の場合、すでに答えが出ているようなものなのだ。

 こんな一等地に立派な屋敷を所有していて、妬ましいほど見栄えのする二人なのに、互いに目の前にありながら、通じ合える日は二度と来ない。

 そんな実態がまざまざと見えてきて、アニカはとてつもなく切ない気分になった。

 何より問題なのは、残された彼が、その現実を未だ受け入れられずにいる点だ。彼女が目覚め、しかもある程度自発的に動けるようにならない限り使うことのない、リハビリ用の器具まで用意してあるのが、その表れだ。希望を持つこと自体は決して悪いことではないけれど、起こり得ない可能性に囚われて生き続けるのは、かえって不健全だ。

 ──きっと彼の中で、何かが壊れてしまったのだろう。彼女を永遠に失ったとき、心の一部が壊死を起こして。

 はじめは彼のことを心密かに恐れていたアニカだったが、今は逆に、その彼の行く末が心配だった。

小説『翡翠の神話(ミュートス)』悠冴紀著

(※ 第一部『窓辺のスフィンクス』より)

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