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悠冴紀著『翡翠の神話』試し読み②

更新日:1月6日


悠冴紀著のミステリー系小説『翡翠の神話(ミュートス)』

「──そろそろ白状してもらおうか」

 いつものように中心街に出かけていく途中、駅まであと数メートルというところで、暗がりから不意に聞こえてきたその低い声に、女は振り返るなりギョッとしていた。Jはいつの間にか背後を取っていて、彼女が思うより間近にいた。

「何が狙いだ? 俺をどうしたい?」

 相手を射すくめる脅迫的な重低音で、徐に迫ってくる彼を見上げて、彼女はすっかり凍り付いていた。季節感の欠片もない黒づくめの衣服で現れ、タイトな黒いレザーグローブをしならせながら仁王立ちしている彼の姿は、さながら暗殺者のようだった。

「あんたは俺の最愛の者に瓜二つだ。面影があるなんてレベルじゃない。顔だけで言えば、そのものだ。こんな偶然はあり得ないと、俺がすぐに感づくことぐらい、初めからわかっていただろう?」

 女はしばらく強張る顔で固まっていたが、Jにそこまで問い詰められると、意外にもホッとしたような表情を広げた。

「──そう。やっぱりそうだったのね? あなたはあのとき、たまたま悲鳴を聞いて駆け付けたんじゃなく、この顔に見覚えがあったから私に近づいた。そういうことね?」

 質問に質問で返されて、Jは無言で眉をひそめた。

「私はずっと、そういう人が現れるものと期待して、ここベルリンをウロついていたの。だけど、それならどうしてすぐに言ってくれなかったの? 知った顔だって」

 彼女はそこで改めて Jを見上げ、思いがけないことを口走った。

「私は単なる観光でここに来たんじゃない。人を捜しに来たの。私の双子の妹 ……鄭玉英(てい ぎょくえい)をね」と。

 Jはますます訝しげに彼女を見やり、薄い唇を固く結んだ。

 鄭玉英は憲玲の元の名前。表の社会に居場所を失くし、裏社会で偽名を名乗り始めると同時に、彼女が捨て去った本名だ。日本で巡り会った忘れ得ない相手である Jを追って、ここベルリンに来てからの彼女は、別人のように改心して Jの良心の代役となったが、その経歴はおどろおどろしいほどに血塗られていて、かつては周りから『死に神』と恐れられる殺し屋だった。現在の安らかな寝顔からは、想像もできない過去だったのだ。

「風の噂に、妹は死んだと聞いたけど、私は信じなかった。彼女が消息を断ったここベルリンで、この顔の私が歩き回っていれば、いずれは事情を知る人に突き当たるだろうと思って、体当たり的に乗り込んできたの。最初はうまくいくか自信がなかったけど、来て正解だった。あなたが現れたもの」

 一呼吸おいて、女が…紅花(ホンファ)が言った。

「彼女は今、どこにいるの? あなたは何か知っているんでしょう?」と。

 Jは硬い表情で口を閉ざしたまま、相手の質問には一切答えなかった。ただ見透かしたような鋭い目で、しばらくじっと彼女を見据えたあと、一言だけ声を放った。

「あいつに姉がいた記録はない」と。

 かつて憲玲の人物調査をしたことのある Jには、確信があった。彼女に兄弟姉妹の類いは一人としていない。まして双子がいたなどとは、彼女本人の口から話題に出たためしもない。

 しかしその矛盾をつかれて尚、目の前の女は双子の姉だと言い張った。彼女の話によると、一人っ子政策のあった当時でも、双子の場合は適用外とされていたのだが、経済的に二人の子供を養うような余裕がない家庭だったため、結局国に出生登録をしたのは玉英の方だけなのだという。幼少時、体が弱くて将来を期待されなかった姉、紅花の方は、書面上存在しないも同然の身として、見放されていたというのだ。

「正直はじめは、妹が妬ましかった。私は生まれたときから、ずっと影の存在であることを余儀なくされてきたんだもの。赤の他人の家に預けられて。だけどその後彼女のたどった道のりを思うと、私の方がまだずっとマシだった。健康に生まれ、有望視されていたはずの妹は、両親を事故で亡くしたあと、目先の利益に目の眩んだ薄情な叔父夫妻の手で、人身売買組織に売り飛ばされていったんだから」

 憲玲は身の安全のため、幾重もの偽の経歴で、自分の素性を掴まれないようにしてきた。目の前の女が今語った身の上話も、一般の人間には知り得ないことだ。ただし、情報筋の人間なら、背後の組織の技術とネットワークを活かして、調べ上げることもできる。

 そんな Jの疑いをよそに、紅花は続けた。

「その事実を知ったときから、私はどうにか妹を捜して再会したいと望むようになったの。……まあ、半分は自己満足の罪滅ぼしみたいなものかもしれないけれど──」

 感情を覗かせながらの尤もらしい話だが、Jは依然として信用しなかった。この手の作り話も、その筋の人間であればいくらでも思いつく話だ。周到に用意されたディテールに、その場の思い付きで説得力のある感情を流し込み、いかにもそれらしく脚色する。何しろヴェルナーのようなお抱えの専門家から、嘘のつき方、人心の操り方を仕込まれてきた、筋金入りのホラ吹き集団なのだから。

「──人身売買組織から自力で逃げ出したというところで、妹の消息は一旦途切れて、何の手掛かりも見いだせなくなっていた。だからてっきり、組織の追っ手に再び捕まったか何かで、人知れず葬られてしまったのかもしれないって、諦めかけていた。それが、あれから何年も経った今更という頃になって、知人が仕事で訪れたここベルリンで、私によく似た女性を見かけたと ……」

 一呼吸おいて、紅花は続けた。

「知人の話では、彼女はぐったりとした状態で救急病院に運ばれていくところだったとか。あれではきっと助からなかっただろうから、身元不明者の遺体がないか問い合わせた方が早い、とまで言われたわ。だけど、妹は強い人間なの。一度は死んだと思われていたのに、実際にはその後も生き延びていたんだから。今もどこかで、きっと生きている。そう信じて、ここに来た。だから…、お願いだから、無事だと言って。生きているんでしょう、玉英は?」

 Jは身構えた態度をそのままに、こう答えた。

「……残念だが、今回ばかりはダメだった。確かにあいつは、数々の困難を乗り越え、普通の人間なら耐え得ないような地獄を這いずり回って生きてきた。だがどんな強い人間にも、限界はある」

 相手の表情の変化を慎重に観察しながら、Jはもう一言加えておいた。内心何一つ信じていなくても、一応は相手の話に沿う形で。

「気の利いた返答をしてやれれば良かったんだが、これが現実だ」と。

 その瞬間、張り詰めた表情で耳を傾けていた紅花が、堰を切ったようにわっと泣き出した。涙が出るより先にぐらりと倒れそうになったので、Jはとっさに手を差し伸べて、自分に寄りかからせた。

 ……不覚だった。相手は憲玲の姿を盗み、自分の弱みに付け込んで騙しに来た女。そのまま足下に倒れさせておけば良かったものを。身体が反射的に動いてしまったのだ。

 ひとしきり泣いたあと、彼女はふと顔を上げると、

「──少し時間ある? どこかで一杯やりたい気分なんだけど…」と Jに誘いをかけてきた。

「軽々しくそんなことを言っていいのか? もし俺が、あんたの妹を死ぬまでこき使っていたポン引きか何かだったら、どうするんだ? 最悪はあんた自身も、売り飛ばされるところだぞ」

 Jのその醒めた切り返しに、彼女は苦笑を浮かべてこう返した。

「よしてよ。いくらあなたが強面でも、そんな人には見えない。第一、騙して連れ去ろうとしているなら、わざわざそんな風に警告したりしない。そうでしょう?」

 言いながら紅花は、Jの翡翠色の瞳をじっと覗き込んできた。

「何よりも、さっき『俺の最愛の者』って言ったときのあなたのその眼……。人間は皆それぞれ、自分に多少の嘘を許すことで身を護る生き物だけど、そのことに関してだけは、決して嘘をつけないって眼をしてた」

 しばらくの間があき、互いにしんと押し黙ってしまった二人だったが、やがて Jが観念したような表情を浮かべ、「呑みに行くか」との声を放った。バカげたゲームだとわかっていても、今は無性にそうしたい気分だった。

 遠くにネオンのチラつく通りの先を視線で指すと、Jは彼女を連れて歩き出した。

小説『翡翠の神話(ミュートス)』悠冴紀著

(※ 第二部『ペガサスの嘶き』より)

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