• 悠冴紀

試し読み①『PHASE』

更新日:1月6日




 教団を訴えた信者本人と見られる三十代半ばぐらいの男性が、玄関口から現れた。彼は半開きにした扉の内側から顔だけを出し、まずは周りを見回していた。それから静かにゆっくりと扉を閉め、人気のない路地を東に向かって歩き出した。

 教団に反旗をひるがえした立場柄、身の危険を感じて疑心暗鬼になっているのかもしれない。

 自分に想像できる範囲でそんな風に察して、絵梨は、どう声をかけたらいいか考え巡らせながら、彼のあとをつけていった。

 信者は一度近くの公衆電話に立ち寄り、何枚か電話帳のページを繰ったあと、すぐにまた歩き出して、あるマンションの駐車場にやってきた。V字型で新旧二棟に分かれた十一階建ての一階部分に、南と西の二辺を縁取られたその広い駐車場には、トタン屋根のついた駐輪場が隣接している。昼間も陽射しが届かないであろう駐輪場の方は、照明が壊れているのか、気味が悪いほど真っ暗だ。

 絵梨が、マンションのゴミ置き場に身を隠して覗き込んでいると、彼が急に、ハッとした様子で一点を見つめて静止した。それも、石にでもなってしまったかのように微動だにせず。ただならぬ緊張感が、絵梨のところにまで伝わってきた。

 信者の視線を追って絵梨が目を凝らしていると、駐輪場の奥から誰かが現れた。暗くてはっきりとは見えないが、長いコートを靡かせながら足音もなく彼の元へ歩み寄ってくる。

 信者の方も、今しがた火をつけた煙草を用済みとばかりに落として靴の裏で踏み消すと、その人物に歩み寄っていった。

 二人の距離が縮まり、あと数歩で手が届くほどになったとき、近くに設置されていた照明の灯りで、ようやく相手の姿があらわになった。

 絵梨は思わず目を見張った。

 あの彫りの深い端正な顔だちは、失踪前に弟と接触していたという似顔絵の男だ。

 男は信者からすれ違いざまに何かを受け取ったあと、声をひそめて一言二言語りかけると、すぐに信者から離れ駐車場をあとにした。

 アッという間の出来事だった。二人のうちどちらを追うべきか大いに迷ったが、絵梨は思い切って似顔絵の男の方を尾行していった。彼がもし弟の失踪に直接関与した身なら、あわよくばこれから向かう先に弟がいるかもしれないし、たとえその当てが外れても、彼の住まいだか潜伏先だかがわかれば、何らかの手掛かりにはなるはずだ。

 足音が聞こえないよう、また万一感づかれた場合に逃げ切れるよう充分に距離を取りながら、不気味に静かな路地を行く。寝静まった夜の街はモノトーンの迷路のように続いていて、路上を這いずり回る物陰が、煙のように男の足音をかき消していく。

 絵梨は男について、一軒家の間あいだにマンションや工場や用途不明の空き地が現れる住宅地を歩いていたのだが、何度か曲がり角を曲がったとき、つい先ほどまで前にいた男の姿が、忽然と消えていることに気が付いた。

 ……しまった!

 この近くに住んでいて、どこかの家屋に入っていったのか、それとも別の道に折れて死角に入っただけなのか…。

 絵梨は走り出し、角という角を片端から確かめていった。そして四つ目に確認に向かった曲がり角から、絵梨が顔を突き出したときだった。瞳の中の景色が急に勢いよく走り出し、一瞬、物という物が横に伸びてバーコードのように見えた。

 頭の中が真っ白になっていた絵梨が、何度か瞬きをしてからもう一度目を開けると、眼前にあの男がいた。絵梨を壁際に追い詰め、首を鷲掴みにした姿で。

「何故俺をつける!」

 凄みのある低い声が、絵梨に問い詰めてきた。容姿からは想像もできなかった、ほとんど訛りのない日本語だ。

「答えろ。お前は誰だ!」

 冷酷そうな切れ長の目の下で、厚みのない薄い唇が、また声を放った。単に強面なだけでなく、非常に知能指数の高そうな相貌をしているところが、一層威圧的に見えた。

 絵梨は思わず萎縮してしまっていたが、どうにか言葉を探して突っ返した。

「そ、そっちこそ…! あなたが何者なのか言わないと、私も教えない!」

 男が一瞬眉をひそめ、沈黙した。それから彼は、難解な数式を組み立てる数学者のような様で、眼球を小刻みに素早く揺らし、何やら頭の中だけで考え巡らせていた。

 その間の静けさに堪えがたい緊張感を覚え、絵梨は思わず「わ、私のバックには力になってくれる人たちがいる。私の身に何かあれば、代わってその人たちが動き出すわよ!」と口から出まかせを放った。

 だが男は、ぐっと近づいて抉るように絵梨の目を覗き込むと、あっさり見抜いた。

「いや、ハッタリだな」

 冷ややかに一瞥したあと、男はやっと絵梨の首から手を離し、独特の低い声で言った。

「二度と俺に近づくな。後悔することになるぞ」と。

 すっと下がって絵梨から距離を取ると、男は静かに背中を向けた。そして、軸の定まった洗練された動きで、鮫のように夜の暗がりに消えていった。

 絵梨は震える足を止められないまま、長い間その場に立ち尽くしていた。この肌寒い季節に似合わず、額に冷や汗を滲ませて。

from 小説『PHASE(フェーズ)』悠冴紀著

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