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  • 悠冴紀

作品と作者は別次元w


前回の日記で、My小説の登場人物の風貌に近い人物を探すという、イメージ女優の話をしましたが、そこでも少し触れたように、最近は、今年のはじめに出版した最新作の影響で、色んな人から本業である執筆業について訊かれる機会が増えました。作品のテーマについての濃い話もあれば、登場人物たちの人間臭い矛盾や魅力についての話で盛り上がるときもあり、実に充実した毎日です。 文章は、一目に美しさや面白さが伝わる絵画や彫刻などの表現手段とは違い、そこに描かれたものに色や形や動きを見て取る読者を介して初めて実体を得る、暗号のようなものです。読み解く者がいなければ、そこに書かれた内容は存在しないも同然。造形的には、見て綺麗なものですらない、意味不明なモノクロの線の寄せ集めです。(←字の上手い人が書いた手書き原稿や習字なら別な価値も出てきますが、今時の原稿は、パソコン任せに印刷された活字ばっかりですしねw) だからこそ、本離れの時代にありながら、読んでくれる人の存在というのがますます貴重で、「私の活動は、こういう人たちによって支えられているんだな~」という現実をひしと実感し、感謝の意を新たにしています☆彡 特に、登場人物たちに対して、まるで実在するかのように感情移入してくださっている方々の意見・感想は、どんなに気軽でミーハーな話であっても、やり取りしていて心底楽しく、今後も書き続けよう!という意欲の源として活きてきます(^_-)-☆ 読み手の中で、登場人物たちが命を得ているという証ですからね♪♪

Illustration by Michael Sowa

……ただ、そんな作品越しの交流の中にも、どうしても「申し訳ないけど、書き手 としては、こういう会話はもう御免被りたいなw」と疲れてしまうやり取りがあります。 それは、フィクションである作品と現実の作者とを一緒くたにして、接点を見いだすために質問責めにしたり、

そこで接点を見いだせないと、作品に対して「信ぴょう性なし」とのレッテルを貼ってしまったりするやり取りです。 もちろん、書き手に直接会う機会なんてめったにないので、純粋な好奇心であれこれ質問してみただけだったり、作者を前にして何を話していいのかわからないので、とりあえず誰もが知りたがりそうな一般的な質問をしてみただけ、ということなら、ごく自然な流れだし、特に問題もありません。ただその質問の背後に、「筋違いな決めつけ」や「視野狭窄な偏見」がある場合が、問題なのです(; 一一) たとえば、私の処女作『クルイロ』では、主人公が日本人ではなくロシア人なので、当然ロシアの情勢・情景描写があり、しかもサッカー少年なので、サッカーの話も出てきます。今年出版した最新作『JADE~表象のかなたに~』では、ドイツが主な舞台で、旧東ドイツ圏であるポツダムやドレスデン、そしてベルリンの描写が多く見られます。 そこで必ず訊かれるのが、「なんでロシア? なんでドイツ? あんた日本人なのに、なんで日本舞台ではないの?」とか「サッカーなんて自分ではしていなかったでしょう? あなたの普段のイメージとも全然重ならないんだけど、なんでサッカー?」とかいう類いの質問です。 疑問に思われるのは当然ですが、国籍や特技云々の前に、 そもそも、物語の登場人物は作者本人ではなく、架空の人物です。 物語の舞台設定や小道具なども、当然作者である私と個人的に関係があるかどうかで選ぶのではなく、それぞれの登場人物たちに合ったものでなくてはなりません。作者の人生そのままの舞台設定や出来事を描くのは、小説ではなく自伝。ノンフィクションです。要所要所に、作者本人の経験から来る教訓や持論を織り交ぜてはいても、それなりに寓話化されて異なる装い・異なる肉付けをされているのだから、総じて違っているのが当たり前です。 ……というか、そういうツッコミを始めたら、   書くことを許される領域がどんどん狭まってしまいますw 街に出かける金のない貧しい田舎者は、自分の生まれ育った範囲内の 田舎描写しか許されないことになってしまうし、山育ちの人間が、海への憧れからあれこれ調べて書いた海の物語は、作者当人の人生という裏付けがないので無価値、ということになってしまう。警察官という職業についていた経歴の持ち主でなくては、刑事ものの犯罪小説は書いてはならないし、ハーフでも外国人でもない日本人が外国人を主役にすることもおかしいのでダメ(←じゃあ、猫の観点からものを書いた夏目漱石の『吾輩は猫である』は一体どうなるのでしょう?? 現代の書き手たちが決して体験し得ない時代の、今とは大きく景色も世相も異なる時代小説は??? 汗)、水産学部卒業という学歴がなく、サメ研究の専門家でもない私が、インタビューや調べものや水族館でのサメ見学&触れ合いをもとに海洋サメ小説を書くのもタブー……。 キリがありませんよ、そんなことを言い始めたらw 知人のフラメンコ・ダンサーも、「『なんで日本人なのにフラメンコ?』という質問をよく受ける」と言っていましたが、それと同じです。単なる興味から何気なく質問して、「いえ、別に、ただ私の気質に合っていたんでw」とか「元々はクラシックバレエから始めたけど、色々試してみるうち、『私にはこれしかない』とピンときたから」とかいう返答(←つまり言葉で明確に説明できるような理由や決定的なきっかけなんて思い出せないけど、とにかく魂の欲するものだから始めた、という感じの返答)でも良しとして、「ふ~ん。よくはわからないけど、それがこの人の選択、やりたくてやっているんだな~♪」と受け流してくれれば、問題ないんですけどね。そこで更に首をかしげて、「でも日本人ねんから、盆踊りでもええやんw なんでわざわざフラメンコ? 盆踊りにした方がええでw」とかいう余計なお節介で説教を始め、自分のちっぽけな価値観を押し付けてくるようなヤツがいると、面倒くさいんですwww 「なんか悪いんかい!!

 誰に迷惑かけるわけでもないんやから、ほっとけや!💢」  と言ってやりたい A^_^; 魚介類を中心にしたレストランは、 海育ちか海暮らしの長い人間でないと開店する資格がないのかっ??? タイ料理が好きな人が、「スパイシーなテイストや味の多さが口に合うから♪」と、すでに一応の返答をしているのに、いちいち「でもなんで? スパイシーやったら、和食に唐辛子加えただけでもええやん。わさびも美味しいで。あんた日本人やろう?」と突っ込むのか??? ……かと思えば、逆に、そういう人たちの目線を気にして、自分の日常生活や経歴と直接的に関わりのある範囲内で、作品を書いて披露すると、今度は「自分の領域だけで書いてないで、殻を打ち破って経験範囲外のことまで書けるようにならんとアカンで」とか言われるんですけどねw まったく、どないせーっちゅーねん!!って話です、ハイw 💢

Illustration by Michael Sowa

でもまあ、そういう野暮な物言いをしてくる人たちというのは、 大抵、こちらの作品をちゃんと見たことがなくて、「それ、どこが舞台? どんな話?」と、書き手である私から大まかなあらましを聞いただけの人たちなんですけどね。『百聞は一見に如かず』とはよく言ったもので、人様に対しては、どんな綿密な調査や専門家・当事者から聞いた話をもとに書いたものより、直接の体験や職業として関わったもの、自分の身近に見てきたものを素材に書いたもののの方がいいに決まっている、というような説教を垂れながら、自分たち自身こそが、口頭で端的に聞いたあらまし(の一部)だけで、物語全体をわかったつもりになってしまっているんですよねw 文字を目で追うこと自体が面倒臭い「読まない人」の部類なので、手っ取り早く作者から答えを聞いてしまえ、という雑な発想だったり、活字中毒といっていいほど読書はしてきたが、自分自身では逆立ちしてもものを書けない創造力の貧相な人で、『読み手』と『書き手』とは視点もベクトルも立ち位置も根本的に違うのだ、ということすら想像できないほど、視野狭窄な人なのです。 (※それに私なんぞは、数字と色が、一定のパターンを持って頭の中で関連づけられていたり、音を聞くと色や景色が見えたりするという、いわゆる『共感覚』の持ち主なので、他の普通の人たちとは情報の取り方からして、全く違っていたりします。「一体あなたのどこからそんな景色・発想・物語が生まれてくるんですか?」なんて訊かれても、「この音階が私には赤色に見えるので、青ではなく赤で表現したかったんです」というような、一見ますます関連不明な、人様には理解し得ない回答になってしまうw 「こいつ、イカレてんのか?」と変な目で見られるのがオチですよw そのせいで作品まで、荒唐無稽で支離滅裂なものに違いない、と決めつけられて、読みもしないうちにレッテルを貼られたら、たまりませんwww) だから、作品をまだ読んでいない人たちや、作家とか小説家という立場(肩書)の方に興味津々で、まずは直接会って話したい、色々訊きたい、というような人たち(←こういう人たちは、「まずは」と言いながら、大抵書き手と会ったあとも、読む気なんて更々ないのですw)には、極力会いに行きたくないんですよねー(;一_一) 私が語り合いたい相手は、あくまで書き手である私への興味ではなく 作品を読んだ上で、作品の内容についてトークしたがっている人たち。 だから普段、私の作品を読んでいない(これからも読みそうにない)人たちといるときには、私はあまり書き手としての自分をアピールしないし、作品についても語らない。訊かれても、映画やドラマなど既成の作品群と結びつけられて見当違いなイメージで固定されないよう、言葉少なに済ませて、あえて具体的には掴めない曖昧な答え方で流してしまいます。 だいたい、いきなり「内容教えて」と言われて、その場で口頭で一言二言にまとめて伝えきれる程度の内容だったら、わざわざ原稿用紙ン百枚もの言葉で本にしたりしませんよw 連ドラだって、何のために映画一回分ではなく1時間×10回以上もの回数で創られていると思っているんだか。一見物語の主軸と関係のないディテールやフェイクでさえ、アートとして、作品として、その味わいを深めるために端から端まで必要なものだから肉付けされているんです。いくら相手が作品の創造主である書き手本人でも、その口から発せられた一言二言で、作品のすべてを知ることなんて、できるはずがないんですよwww (誰もが認める絶世の美女だって、肉をそぎ落として骨組みだけになったら、魅力もクソもないでしょう? その骨格の均整の取れた様をいくら口頭で端的に伝えても、全体像の美しさまでは伝わりませんw) そこを踏まえて、 「まだ読んでいないから掴み切れないのかな? きっと作品をちゃんと見れば納得できるんだろう」と、最終的に読んでから判断してもらわないと、話にならないんですよね。もちろん、実際に最後まで読みきった上で、尚も同じ疑問の数々が残っているようなら、こちらの表現力の問題など、書き手の方が反省しなければならないところですけどね。(←もちろん逆に、相手の読解力に問題のある場合もありますが、読後であれば、それでもれっきとした一意見ですから、聞く価値はあります。) ── まあ、ブツクサと文句を言うのはこのへんにして、   ようするに私が言いたいのは、 作品の答えは、常に作品それ自体の中にある                             ということです。 たとえば、私の最新作『JADE~表象のかなたに~』では、 登場人物たちの生き様や軌跡、心理や現状といったものが、絶妙~に舞台背景とシンクロしています。読み終えたあと、多くの読者が(出版社の人も)「確かに、この話にはこの場所でないとならなかったんだと納得! この場所の情景が登場人物たちにちょうどピッタリだし、国の歩みや地域や建造物が持つ歴史という意味でも、これ以上はないというほど相応しい舞台設定だったと思う」と評価してくれています。 そう、私という書き手の生き様や日常生活、出身地や経歴に合っているのではなく、

登場人物たちや彼等の織り成す物語にピッタリなのです。そこが肝心!!(笑) 私こと悠冴紀の物語、ではなく、 そこに登場してくる彼等彼女等の物語、なんですから。 作者なんぞに興味を向けず、 作品だけと向き合ってほしい。 それが私という書き手の切なる願いです、ハイ A^_^; ──って、 今日は何やらボヤキばっかりで、失礼しましたm(_ _)m 裏話とすら言えないこんな愚痴日記は、めったにないことなので、 今回限りということで、許してやってくださいな。。。 A^_^; 次回からはまた、読んで楽しめるようなネタを書きますね~(^_^)/~

追記:私がどんな作家の影響(模倣)で小説を書くようになったかを知りたがる人も多く、そこから私という書き手の傾向や特徴を掴もうと、「好きな作家は?」とか「どの作家さんを目指して書いてきたの?」とか「子供の頃から読書好きだったの?」とかいう質問をしてくる人も多いのですが、実はそれも、私にとっては内心「またかw」という苦手な質問例の一つで、相手の見当違いな前提・期待が透けて見えてしまう、的外れな質問だったりしますm(_ _)m こんなことを言うと傲慢と思われるかな、という気がして、いつも答えをはぐらかしてしまいますが、もうこの場で正直に言っておきます。「すごい! 天才!!」とか「さすが! 私には到底無理なレベル!!」と衝撃を受ける作品なら多々ありますが、これまで読んだ限りでは、「個人的にこの作家さんの大ファン! もう虜だ!! しもべになります!!」とまで思えるほど自分の好みに合う作品には出会えていなくて、今一歩、「ここをもう少し掘り下げてほしかった!」とか「こういう要素があったら、もっとずっと好きになれたのに! 惜しいw」という思いを残すことが多かったので、「そういう本が身近に存在しないなら、もう自分で創っちまえ! 自分が読みたいものは自分で書く!」という思いから、私なりのストーリー、私好みの登場人物たちを自分で書くようになった。それが私の、漫画に始まり小説という表現に行き着いた執筆ライフの最大の動機・原点です。 (※誤解のないよう言っておきますが、他の作家さんたちにケチをつけているわけでは決してありません。自分が一番だと思っているわけですらないw ただ、好みの問題です。私自身が、人とはズレた嗜好を持つ変わり種である上に、自分の望むもの・思い描く世界観そのものピタリでないと満足できない我が侭な人間だから、何でも自分で創るようになった。それだけの話です。自分の好みのタイプをあれこれ細かくイメージしすぎている人が、実在の誰と付き合っても満足しきれないのと同様、頭の中の想像物に寸分違わずピタリと当てはまる存在なんて、外側のどこを探しても実在するわけがないのです。自分の思い描くものをそのまま自分で形にしない限りは。それと、もちろん、私の読書量や巡りあわせ、読解力の問題などもあるでしょうねA^_^; 頭の中で「色⇒数字」「音⇒色彩・景色」という妙な変換がある私だけに、「言葉⇒言葉」というストレートな解釈がし辛く、閃きの源も言葉以外のものが大半ですからw 他の作家さんや作品群からの影響が見られないのも、共感覚によって他次元の表現へと変換される認識の特異性によるところが大きいように思われますw) 私のお気に入り女優の一人、▲エリザ・ドゥシュクの言葉にこんなものがあります。 「自分自身の中で、競争心みたいなものはあまり持たないようにしているの。

何かになりたい、誰かになりたいではなく、自分に誇りを持って、私にできる最高の自分になりたい」と。 この言葉は、自分のことなんてどうでもよくて作品第一な私にも、 置き換えて当てはめることができる、大いに共感できる言葉だな~と思います。 目指すところは常に、自分の作品史上最高の作品。 それだけですよ(^_-)-☆

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