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  • 悠冴紀

悪 夢


昨日悪夢を見た これまで味わったこともない恐怖の味 そこには親友がいない 私には〝今〟しかなかったのに 親友が〝今〟のすべてだったのに <過去>の亡骸 <未来>の虚無 私には<今>しかなかったのに 親友がいるから生き延びてきたのに 生きるか否か 迷っていた そこには親友がいない 永久に相容れない大勢と 家族という名の他人に囲まれて 私は呆然と立ち尽くしている まるで糸の切れた操り人形 生き甲斐そのものを失って 生きるか否か 迷っている 魂の唯一の拠り所を失って 生きるか死ぬか 考えている 詩をつくる意味がない 小説を書く意味がない 言葉を話す意味がない 解読者無き言語はただの雑音 親友のいないこの世界に 生きる価値があるのかどうか・・・ 私は途方に暮れて立ち尽くしている 私の中で時間はすでに止まっている 無駄の連続だった<過去> 宙ぶらりんな<今> 途切れた<未来> 私のすべてが終わったことに気付く 私はすでに 死んでいた ―― 朝の訪れ 悪夢の終わり 恐怖の余韻が生々しい 私は何とか立ち上がる やっとのことで歩き出す 私は再び詩を始める 書きかけの小説の続きを書く 親友のいるこの世界で 生き甲斐のあるこの世界で 儚い<今>を生き延びる 悪夢と現実が重なるとき 「否」の結論を用意して どうにか<今>を生きている

※1997年(当時20歳)のときの作品。  まさに「To be, or not to be」の世界ですね A^_^;)  私の執筆中毒な実態を知っている人たちは、よく「あんたは “No writing, no life” な人だね」と言ってきます。その点は今も変わらぬ現実だけれど、当時の私は、更に “No best-friends, no writing” という一文が加わるような人間で、世界で三人だけの愛読者だった親友たちの評価に、自分の作品価値を全面的に委ねてしまっていました。(←ようするに、依存:汗)  そしてそれすなわち、親友たちが当時の私の命綱であったことを意味していた。  この詩を書いたのは、実際にタイトル通りの悪夢を見た翌日でした。あまりに不吉なので口に出しては語らないようにしていましたが、親友の一人が棺桶に入れられる夢(←火葬場で親友を見送る夢でした)を見て、その夢の中で自分が本当に「よし、決めた。あんたを失うなら、私もこの世におさらばだ!」と決心したところで目が覚めたのです 💀  私はあまり…、いえ、全っっっく怖がりの部類ではないので、ホラー映画まがいの血みどろの悪夢というのはまず見ないのですが、そんな私でも、あれはとてつもない恐怖体験でした (^_^;) どんな人間にも弱みや恐怖の対象は必ずあって、自分も例外ではないと、思い知らされた気分でした、ハイ。  皆さんの恐怖の対象は、何ですか? 自覚していなくても、悪夢の中でそれを体験し、無意識下の自分の弱点をつかれていることなら、あるかもしれませんヨ 💦  その恐怖の対象が、自分自身の弱さに起因する類いの、克服の見込みがあるものであれば、夢や何かを参考に自己分析して立ち向かうこともできるけれど、この詩のように、現実に起きてしまったら悲劇としか言いようのない事柄である場合、なすすべがありませんよね (>_<)  失恋や家族離散や友達との喧嘩別れなど、人間は何かと喪失に学ぶことの多い生き物ですが、『死』による喪失だけは、その後どんな結果がもたらされたとしても、私は一切何も美化しようとは思えない。経験すれば尚更に、できるわけがない。 それほどまでに、『死』とは重い。  何人かとの死別を経験したことで、私は自分にとって大事な人や身近な存在を、以前のように「そこにいて当たり前」とは一瞬たりとも思えなくなり、おかげで、今現在共に生きている人に対して「存在してくれてありがとう」と毎日感謝し、「この人(たち)を守ろう」と思える自分がいるわけですが、失われた存在の重みと、自分の中のどこかに風穴があいて二度と塞がれなくなったような壮絶な喪失感は、永久に消えることがありません。  ただ一方で、辛くてもあえてそこに目を向けていよう、この種の痛みだけは永久に変わらなくていいんだ、と思う自分がいるのも事実ですが……。私は元々逃げるのが嫌いな性分なので、自分の墓の下にまで彼ら彼女らの記憶を携えていこう、時間の経過による曖昧な解決・記憶や感情の風化などは決して期待しない という発想で生きているのです。それが私という人間の在り方ですから(^_^;)

💡 あ、ちなみに、  この詩の悪夢に出てきた私の『親友』は、今も元気に生きているのでご安心を!A^_^;) ショッキングな死別体験は何度かありましたが、私がこうして今も生きさらばえているのは、あのときの悪夢の内容が現実にはならなかったからと言えるでせう 💦  この詩の『親友』とは異なる他の親友(←当時「親友」と呼べる相手は3人いた)との間で、関係が壊れてドロドロの末路に至ったこともありましたが、それでも何だかんだ言って耐え抜けたのは、どんなになっても相手がちゃんと生きていて、今もこの世のどこかには存在してくれているからだと思います。

 以前、何かのドキュメンタリー番組で、病気で余命僅かな幼い男の子が、残された時間をどう活かし、どう人様の役に立てるか、自分に何ができ、何を残せるのか、という命題に頭を悩ませた果てに、ふと肩の力の抜けた縹渺とした顔になり、どこか諦観したような眼で周りの世界を眺めながら、「生きているだけで良かったんだ・・・・・・」と呟いたときのことを、思い出しました。  多くの人々が様々な形で(ときに暴力や破壊などといった誤った形で)確認・証明しようとしてきた、生の意義への答えなき問いかけ、己のみならず複数の存在をして過去から未来へと繋ぎ合わされ、積み重ねられていく永遠の「過程の美」が、あの一言、あの眼差しに、凝縮されている気がしました。  私にとっての命綱であり続けてくれたあの親友たちのように、傍にいるだけで知らず知らず、この世の誰かを支える命綱となっているかけがえのない人たちの存在に、私はこの場を借りて今改めて、「ありがとう」と言いたい m(_ _)m 注)私の言葉を一部でも引用・転載する場合は、

  必ず「悠冴紀著『◎◎(作品名やHPタイトル)より』と明記してください。   自分の作品であるかのように公開するのは、著作権の侵害に当たります!


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