一つの事実
人の数だけ存在する真実 事実がはじめに滑り出し その後を 生まれたての真実たちが駆けていく 色違いの真実 形違いの真実 認識次第で異なる事実の化身 優も劣も無いけれど 不当な天秤にかけられる 白も黒も無いけれど 『倫理』に『道徳』に裁かれる やがて一つが多数決で選ばれ 一般論として定着する 他の多くは沈黙を覚える あるがままの事実さえ 忘却の彼方へ消えゆく頃 多くの真実が眠りに落ちる 地上の光から身を隠す それでも色褪せることはない それでも基軸を歪めはしない 幼い自己顕示を離れ 盲目の主張を捨てるとき 未曾有の形而上学が生まれ出る 事実と思考を融合した真実の果て 暗号化された碑文のように 大地に眠る化石のように 幾重もの謎で軌跡を覆いながら 可能性の未来を指す
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※2002年(25歳のとき)の作品。
この詩において、私は『事実(fact)』+『人間の思考・判断』=『真実(truth)』と定義づけています。つまり、ただ実際に起きた出来事や、目に見える形で存在するものが事実(fact)であり、それを見聞きした人間の意識のレンズを通して「これが事実であるに違いない」と判断されたものが真実(truth)だというわけです。 この観点からすると、欲や感情や固定観念等に囚われれば囚われるほど、その人の見なすところの『真実』は、むき出しの『事実』から遠く離れていく。
人は「理解されたい」という心の飢餓から承認欲求や自己顕示欲に囚われたり、都合の悪い事柄を排除して、見たいものしか見なくなったり、独善的な信念を掲げる団体を集って、あえて狭い枠組みの中に逃げ込んだりしがちですが、そんな幼い欲求から卒業して自分に距離をおく冷静さを身に付けたとき、むき出しの『事実』に限りなく近い位置に軸足を据えた上で、それぞれの思考・判断・教訓をも活かした哲学を編み出せるのではないか──というのが、この詩を制作した当時の私の発想でした。
ただし、今振り返ると、私の求めていたところのものは、形而上学とは似ているようでも少し違うというか、途中からだんだんと心離れしていったような気もしています。 元はと言えば、物事の根っこにある普遍のテーマや共通のパターン、根本原因などを見いだすことで、目の前の問題事の数々に改善点を見いだし、今後に活かしたり未来への警告とすることができるかもしれない、という思いから、あれやこれやと十代 二十代の未熟な頭で探究していただけだったので、突き詰めると神がどうとか魂がどうとかいう命題に辿り着きがちな形而上学は、宗教嫌いの私には馴染み切れなかったのだと思います。(時の流れに縛られず、普遍的かつ観念的であるがゆえに朽ちないものの価値を追究し、ハマっていた時期があったことは確かですが、やはり何事もバランスが大事というか、過剰になると話が違うな、と(^^;))
なので、孤立の果てに悟りを開いたどこかの開祖のような発言(笑)が目だつこの詩作品も、この当時の私ならではの作風というか、現在の醒めきった観点へと至る過程の一作だった、ということで、手放しに読んでいただければ……と思います m(_ _)m 注)私の言葉を一部でも引用・転載する場合は、
必ず『悠冴紀著「◎◎(←HPのタイトルや作品名)」より』と明記してください。 自分の言葉であるかのように公開・発表するのは、著作権の侵害に当たります!
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