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  • 悠冴紀

映画「トゥルース~闇の告発」


「アウシュビッツの灰が国連を形成し、その舵取り役を米国が担ってきた。私の名誉にかけても、国連を性犯罪の温床にはさせない」

「慰安婦はどこにでもいる。倫理など追い求めないさ」 「では一体何のための国連なの? 私は国務相に行くわ」 「デモクラの本社は英国にある。企業なんだ。理想は通用しない」

・・・・・・と、いきなり作中の台詞の引用から入ってしまいましたが、これはレイチェル・ワイズ主演の社会派サスペンス「トゥルース~闇の告発」という映画の一場面です。このやり取りだけでも、この映画がどれほど重いテーマを持つ泥臭い話かが、おわかりいただけることでしょう。しかもこれ、実話に基づいています。それだけに、作中で描写されている不条理さ具合や出口の無さ具合がリアルすぎて、映画という括りでは見られなかった作品の一つでもあります(汗) なのでここでも、私はあえて映画としての出来の良し悪し、芸術的観点からの批評などは語りません。あくまで作品を通して提起された問題そのものについて語りたいと思いますm(__)m まずこの映画は、レイチェル演じる仕事人間タイプの女性警官キャシーの目線で始まります。アメリカ人の彼女が高額の報酬に惹かれて行った先で、思いがけず目を疑うような醜い現実を目の当たりにする。秩序を失くした戦時中のボスニアで蔓延っている人身売買に、現地の警官を始め、本来なら秩序回復のため、また人権擁護のためにと(←これはこれで、どうせ政治的な目的を隠すための建前ですが:汗)送り込まれたはずの国連関係者や軍部の大物、民間警備会社の人たち等、あまりにも多くの偽救援者たちが荷担していたのだ。 一方ウクライナからは、反抗期で遊び盛りな女の子ラヤが、身内の甘い言葉に乗せられて家出した先で、少女たちを奴隷化して死ぬまでこき使う人身売買組織の罠にはまって売り飛ばされ、ボスニアで売春婦として働かされていた。 このあたりの導入がまた実にリアルというか、キャシーもラヤも、始めから何か特異な存在だったわけではなく、元はそんなドス黒い世界とは縁もなかったはずの普通の人間。要は、誰にでも起こり得る悲劇として、この物語は始まるのです。 ですが私が最も強く警戒を呼び掛けたいのは、被害者側だけでなく加害者側の人間も、多くはそう特別に他の普通の人達と違わない存在だ、という点です。はじめから潜在的に暴力的な性分のDV予備軍みたいな人たちだったとか、これまでにも危うい性癖を示していたサイコパスっぽい人間だったとかいうのではなく、平時には無害だったはずの、どこにでもいそうな普通の人たち。(←勿論、長いこと裏稼業で食ってきた人身売買組織のメンバーなども登場してきますが。) 「自分は善良で分別のある人間の部類だ。

何が起きても、自分に限ってそんな外道なことをするはずがない」 よその国の他人事として遠目に見ているうちは、大抵の人がそう思うでしょう。ここまで泥臭いことが現実に起きるはずがない、大多数の人間はそこまで下劣になれやしない、一部の数限られた異常な人間だけが陥る稀な現象か、あるいは映画の中だけの作り話だ……と。 残念ながら、私は、自分自身のこれまでの経験とあわせて判断した上で、こう言っておきます。「十二分に起こり得ます。起きて不思議なことでさえない。この手の悲惨な事柄、醜い人間模様は、実際にあちこちで無数に見られる現実です」と。 * * * * * * * * * 記憶をたどれば、私がまだまだ社会的に無力で、家族という最少単位の後ろ盾すらない見放された存在であることを、この顔、この表情から隠せずにいた無防備な子供時代、そんな私に、死肉に群がるハイエナのように近寄ってきては、相手の不利な立場それ自体に付け込んで、おもしろ半分の嗜虐や憂さ晴らしで、更なる奈落に突き落とそうとしたり、「どうせゴミ箱の中のゴミなら、灰になる前にとことん利用し尽くしてから捨ててやれ」とでも言うかのように、骨の髄まで貪り尽くそうとする卑劣な人間が、数えきれないほどいました。 勿論、私がこの平和な日本で経験してきた人災や不条理など、映画『トゥルース』のキャシーやラヤのような人たちが体験する数多の悲劇に比べれば、屁でもないような些細なものばかりでしょう。でもそれは、人間の孕む危うさと闇の底知れなさを窺わせる、確かな片鱗。規模は違えど共通の問題に根ざしていて、拡大すれば彼女たちを捕らえたのと同様の闇が浮かび上がってくる縮図のようなものだったのです。 何の後ろ盾もない不利な立場の者を前にしたとき、人間がどれほど恥ずかしげもなく己の品位を落とし、どれほど卑劣な獣になれるか、私はこの目で見て知っている。そして私の目撃した彼等もまた、一般社会では地位も仕事も家庭もある普通の人たちでした。犯罪者でもなければ、その予備軍として警戒されるレベルですらなかったはずの人たち。それが、「群れから外れた野生動物の子供のように、何者にも護られず世の中にも見放された、社会的には存在しないも同然のこんなガキが相手なら、多少横暴を働こうとバレはしないし、何をやっても咎められはしない。いわばやりたい放題の無法地帯で、子猫を見つけたのと同じ。こっちが捕食者で、こいつは餌だ」とばかりに、こちらの絶対的な劣位を見て取った途端、人間として越えてはならない一線をひょいと飛び越えて豹変し、いとも簡単に倫理観を失くしてしまうのです。何かに憑かれたように我を失い、目の色を変えて。 ちなみに私は、学校で同級生たちからイジメのターゲットにされる、などということは全っっくないタイプでしたが(←むしろ中学生前半頃までは、虚勢によって自分を護ることに必死になるあまり、ジャイアン的な第二の加害者と化していたm(_ _)m)、代わりに、よこしまな大人たちの都合のいいサンドバッグにされたり、犯罪すれすれの汚い手で都合よく利用されまくったりする幼児期~若者時代を過ごしておりましたA^_^;) 今現在は、そういう諸々の経験を活かして、自分自身が同様の加害者にならないよう(あるいはかつての自分のような第二の加害者にもならないよう)気をつけること、また加害者になる寸前の人達に、犠牲を出す前に押し留まるきっかけを与えるような警告の言葉を綴ること(&二度とかつての私のような二次的な怪物を生み出さないこと)、というのが私の重要なテーマであって、大昔の被害体験を何かの言い訳にしたり、ネチネチと個人的な怨みを語るほどの若さはありませんけどね(笑) ただ、一人の人間として、同じように誰かの人間尊厳が踏みにじられるのを目の当たりにすると、やはり憤りを覚えずにはいられない。その手の現実の本質的な部分が、経験をもとに見えすぎるからこそ、より一層。本作『トゥルース』を見て感じた怒りや悔しさも、まさにそれです。

そしてこの手の憤りを、私はあえてこれからも大事にしていたい。それすら感じなくなったら、もはや人間ではないと思うから。 * * * * * * * * *  💡 ここで一つ余談ですが、不利な立場の者が発する無防備な負のオーラみたいなものが、接する相手に手出ししたくなるような気を起させて、知らず知らず難儀な状況や嗜虐的な人間を招き寄せてしまう、ということも言えるれるかもしれません。責任所在の問題ではなく、あくまで原因と結果の因果関係の一つとして。 (☝ 上記の最後の一言は、誤解のないように、「それも一因だから、やられる側も悪い」なんて話では決してありませんヨ、というニュアンスを込めた断り書きですA^_^;) たとえばイジメられっ子が無意識に負け犬オーラを発していて、人様を何となくイジめたい気にさせるからといって、リンチしようが恐喝しようが構わない、半分は被害者のせい、なんてことには決してならないでしょう? 日本は自虐の美学が過ぎる国なので、被害体験のある人ほど自分を責め、行く行くは過去を恥じるあまり、そういう発言をしてかつての自分に似た被害者たちに辛辣な態度を取ってしまいがちですが、それは、本来ならもっと客観的に、物理学的な「現象」として捉えるべき単なる因果関係の部分に、筋違いな感情を織り交ぜて、倫理問題や責任所在の問題と混同してしまっているがゆえ。まさに「やる側」の思う壺ですw

原因があるので事は起きるし、そのままだと繰り返される。でも、悪いのはあくまで「やる側」の人間。衝動に駆られて外道な行為をやらかしてしまう前に、人間ならば倫理的判断をもって自分のしようとしていることを疑問視・問題視すべきだったのです。あっさり鬼畜の領域に堕ちてしまう前に。 そんなわけで、ここで語る私の余談も、あくまで原因と結果の関係性について語っているだけで、決して「やる側」に対する弁護や「やられる側」に対する責任追及ではないのだという点を、ご理解くださいm(_ _)m この話を通して、人間心理の普遍的な流れ・弱肉強食の本能的なベクトルについて、客観的に暴き出したいだけです。) 「やる側」と「やられる側」との間に見られるこの手の現象は、同じく実話をもとにしたドイツ映画『es』(アメリカ版は『エクスペリメント』)に通ずるところがあると、本作『トゥルース~闇の告発』を見ていて、ふと感じました。看守と囚人とに役どころを分けることで、法や社会や国家といった確かな後ろ盾があることを実感できる優位な制服組と、囚人服を来た無防備な人たちとに区別されて、はじめはちょっとした好奇心や金欲しさに軽~い気持ちで実験に参加しただけの被験者たちが、次第に内なる支配欲や追従意識、暴力性や反逆精神などに目覚め、役どころそのものな虐待者と被虐待者、支配者と反逆者へと変貌していく。 特に看守の側にご注目。「多少やりすぎたって咎められやしない、何しろそれが仕事であり役目なんだから」とか、「その延長上で一線を越えても、バレないよううまくやればいいだけ。自分たちの立場なら隠ぺいするのも簡単だ」などといった特権意識に囚われ始めた途端、「俺たちが法だ!」とばかりに恐怖政治を強いるようになり、平然と人様の尊厳を踏みにじるモンスターと化していったのです。圧倒的に不利な立場にある「やられる側」の囚人たちを前にした、目に見えて明らかに有利な立場で。 必ずしも、彼等が元々特別にサディスティックな人間だったから、というわけではありません。割り当てられた役どころが逆だったなら、お互い同じような衝動を覚えただろうし、立場次第、スイッチ一つで、誰でも怪物になり得るのだ、ということを証明していたのです。

ここでやっと『トゥルース』の話に戻りますがm(_ _)m、 戦争のような、法の秩序を丸ごと引っくり返してしまうような大きな混乱が生じると、その大きさの前に、人間個々人の尊厳や権利は、取るに足らないちっぽけなものとして軽んじられがちです。平時なら到底許されないような不道徳なことが、なんでもないことのように罷り通ってしまう。しかもそっち側の加担者たちの方が多数派になってくると、もはやその不道徳こそが、その場、その時期における「常識」になってしまい、成り染まらない一部の真っ当な人たちの方が脅威と見なされるという、倒錯した状況が出来上がってしまう。 そうやって人間は、状況に流されて易々と人間性を放棄し、自ら鬼畜レベルの外道に成り下がっていくものなのです。 ニーチェの言葉にこんなものがあります。 「狂気は個人にあっては稀なことである。しかし集団・民族・時代にあっては通例である」 戦争という混乱がもたらす最大の脅威は、まさに集団や社会全体に伝染・浸透していく人間の狂気なのではないでしょうか。でもそれは、個人の患者に見られるような精神医学的な狂気とは明らかに違う。その手の集団的狂気に陥っている人たちの殆どは、統合失調症でもなければ心神喪失状態でもなく、一人ひとりを取って見れば、皆正気の普通の人間なのです。異常な状況下で良心を眠らせ、本来の判断基準から外れてしまっただけの、ただの人。 だからこそ、恐ろしいのです。それこそスイッチ一つ、きっかけ一つで、映画『トゥルース』に見るような問題は、テレビの前の多くの傍観者たちにとっても、「他人事」ではない「明日は我が身」。作中で取り上げられた性犯罪や女性の権利問題というのは、ほんの一例であって、集団狂気の闇は他にも様々な形を取って、私たち個々人に降りかかってくることでしょう。老若男女を問わず、誰にでも。 水面下で着々と戦争への準備を整え、私たちの権利や秩序を守る最後の砦となるはずの法までもを易々と崩してしまうこの危うい現代日本でも、すでに「他人事」ではありません。 「戦争」と言ってしまえば、大きすぎてイメージしづらい事柄、経験者ではないがゆえに語る資格を永久に得ない事柄として、私たち戦後世代の日本人は漠然とスルーしてしまいがちでしたが、こうして身近に降りかかってくる末端の現実問題を、一つ一つ具体的に取り上げて学習材料にしていけば、実感が湧いてくるのではないでしょうか。事実をボカした遠くの大きな理想や、独善的な正義を謳うプロパガンダを真に受けて、なんとなーく「お国のお偉いさん方の求める通りの考え方しないといけないのかな~。きっとそれが正しいことなんだろうな~」なんて思ってしまっている危なっかしい人たちには、特にオススメしたい一作ですね、この『トゥルース』はA^_^;) こういう作品、こういう事柄の断片を、片端から拾い集めて見ていくことが、ボヤっとした掴みどころのない集団狂気に染まることを防ぎ、私たちに、倒錯した状況下でも正気を保つ知恵を与えてくれるのではないでしょうか。 * * * * * * * * * * それにしても、「ナイロビの蜂」と言い「アレクサンドリア」と言い、レイチェル・ワイズの選ぶ作品はどれもこれも、これでもかというほどやりきれない人間社会の不条理を描いたものが多いですね。一個人の抵抗や働き掛けではあまりに無力で歯が立たない大きな不条理に対して、それと知りながらも懸命に抗い、正面から立ち向かい、人権のために玉砕する。そういう壮絶な物語ばかりです。(ま、ハムナプトラみたいな完全なエンタメ系も、中にはありますけどねA^_^;) 女優ですから、そこは色々と幅広く♪)

※大変長いレビューになってしまいましたm(__)m  最後まで読んでくださった方、どうもありがとうございました。&ご苦労様です(苦笑)


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