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  • 悠冴紀

親 友


自分に何をしてくれるか 自分にどんな利益をもたらすか そんな選び方はしない 恩人は皆親友? 得るものが無くなったらさようなら? そんな浅はかな判断はしない その生き方が その意志が その欠点さえもが 私を魅きつける 一緒に生きたいと思う 喜びを 憂いを 思想さえも 共有したいと思える 定義など無い 存在そのものが 親友でいる理由 誰にも代われない 誰にも真似できない 私がいて あの人達がいて 親友という関係が成り立つ 親友だから大事なのではない 他の誰でもないあの人達だから親友で 他の誰でもないあの人達だから大事なんだ

※文体からすると、一見小中学生時代の作品っぽい感じがしますがA^_^;)、実は1999年(当時22歳)のときの作品です。  ニーチェの著書や『世界毒舌大辞典』(^_^;) などを読み耽ったり、ダリやレメディオス・バロなどのシュルレアリスム系アートにハマったり、言葉遊びとしてのブラック・ジョークを愉しんだりしていた灰汁の強~い日々を過ごす一方で、当時の私にとって何よりも優先されるべきと思われていた3人の親友との関係について、素直に綴った一作です。  神も仏も人間社会の可能性も信じないニヒリストの私が、選びに選んだ親友たちにだけは、この世で唯一絶対的な信頼を寄せ、たとえ人生における他のすべてを失ったとしても、この親友たちとの関係だけは死ぬまで変わらず続くものと、あの頃は信じて疑いませんでした。その後どんな皮肉な展開が待ち受けているか、あの頃にはまだ知る由もなく……(T_T)  疑問符なしの絶対的な信頼……。余談ですが、人生の落とし穴とは、まさにそういうところにこそあるものですよね。ある種の盲目的な宗教のようなものというか、自覚のない狂気というか。。。 そしてその果てで、これは一体何の罰なのかと思うほど、痛い目にあう(ーー;)

 悪意や嫉妬や嗜虐などの疾しい感情で招いた結果ならともかく、よりにもよってこんなにも純粋で潔白な思いから守り続けてきたものが、何故ここまで悲惨な結果をもたらすのだ!?と、やりきれない思いに駆られ、自暴自棄になる人もいるでしょう。かつての私がそうだったように。  でも、悪気がなくとも道を誤ることは、人間にはよくあることです。私の小説PHASE(フェーズ)でも少し触れていますが、良かれと思ってしている限り、その行動も絶対的に「白」なのだと思い込んでしまい、自問の余地をなくしてしまう。そこに盲点ができるのです。そして知らず知らずのうちにバランスを欠いて、過剰で一方的な執着心や、目の前の現実そっちのけの都合のいい空想(←見たいものしか見ないってやつ)の域に迷い込み、最後には最も大切なもの、いわばそれぞれにとっての神のような存在や拠り所を、自ら壊して失う破目になる (;一_一) (☝そういう手痛い実体験に学んだことの一部が、一番わかりやすい形で活かされているのが、私のデビュー作クルイロです。)

 とは言え、その後 何があったにしても、今とは違って、疑いの余地なく何かを信じていられたこの時分の私は、やはり気持ちの上では幸せだったのだと思います。この詩作品にあらわれているのは、まさにその幸福感や確信でしょう。勝手に行きつくところまで行きついて至高の域に達したかのような錯覚をして、思考停止してしまわなければ、お互いに良好な関係を保っていく道もあったでしょう。その意味で、この詩に表現したような事柄自体が間違いだったとは思わないし、むしろ忘れてはならない何かを留めた貴重な一作だったと思います。

 何事も大事なのはバランス。過剰にならないよう気をつけてさえいれば、堕ちることもなかったはずです。そのバランスを保つために大事なのが、安心や怠慢やご都合主義などによる思考停止に抗う意識ではないでしょうか。

(💡 ある時期からお互いに神格化してしまったというか、相手を特別視しすぎた結果の末路なので、「お互い様だったなw」というのが今現在の私の見方ですし、3人の親友のうち、問題が起きたのは一人であって、全員ダメになったわけではありませんので、ご安心ください(;^_^A 今はもう、あの頃のような若くて不安定な心の飢餓感に左右される年頃ではありませんし(笑)、最近は失敗に学んで、残された友人たちとの関係は我ながらバランスのいい状態で保っていると思います (^^;))

※ その後の道のりがそれとなくわかる関連作はこちら▼

●『

●『

●『氷の道標

●『SPHINX

●『JANUS

注)私の作品を一部でも引用・転載する場合は、必ず『悠冴紀作』と明記してください。   自分の作品であるかのように公開するのは、著作権の侵害に当たります!


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