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  • 悠冴紀

祈 り


街角に 通りに バス停に

悪魔と呼ばれる人達がいる

妄想狂と呼ばれる人達がいる 私は知っている

悪魔のつくり方

妄想狂のつくり方

彼等は何を見てしまったのか

運命は彼等にどんな道を歩ませたのか

光よ 彼等を包みたまえ

雨よ 彼等を潤したまえ

そして 私に自由を──

運命よ、今

我等を解き放て 多くを求めはしない ただその手から今 我等の明日を

大気よ 彼等を包みたまえ 大地よ 我等を運びたまえ ゆっくりと宇宙を回りながら 解き放たれた未来へ──

************

※この詩は大学生時代(1998年頃)の懐かし~い作品の一つです。当時の私は、犯罪心理学や病理学の分野に興味を持ち、大学の図書館であれやこれやと調べ物にふけっていました。(←この時期の我流の研究や分析が、現在のミステリー・サスペンス系の作品に大いに活かされていると思います(^_-)-☆)

自分自身の内側にある人畜有害な闇と闘いつつも、自分に近い怪物的な危うさを制御しきれず、周りから恐れられ疎んじられているような人たちを懸命に理解しようと、私は弁護の言葉を探していた。私にできる唯一のことは、言葉というツールでいくらかの安心感を与えることぐらいだと思っていたから。 今振り返ると、人間の問題行動と生い立ちや衝撃体験との因果関係を明らかにすることで、問題児タイプの人たちに情状酌量の余地を見出し、更にはその延長上で、彼らを通して自分自身の中の克服しきれない闇をも赦そうとしていたのだと思います。 (ズバリ言いかえると・・・、都合のいい言い訳探しw(汗)) 「縛られた心からの自由の追求」が大きな目標の一つだった、というあたりからしても、とうに次のステップ、つまり他者との関わりや行動責任などといったテーマと向き合う新たなステージに移った今の私の観点からすると、やはりどこか幼い感じがします。あの頃はまだまだ青かったな・・・とA^_^;) ですが、そういう時期もあってこその現在。あとで振り返るとどんなに未熟で恥ずかしい過去や、罪や過ちの連続だった醜い(どす黒い?汗)軌跡でも、無駄な時期など一切なく、目の前の今を構築する上では欠かせない過程だったりするものです。

だから私はあえて、こうして過去の心情をつづった旧い作品も残しているのです。かつてのように自分の何かを赦す(肯定する)言い訳としての過去ではなく、自分が何か問題を起こしたり道を誤ったりしたとき、どの時点からどう方向舵がズレていったのかを、過たず把握して軌道修正するための手がかりとして。また自分を見失ってしまったとき、光だけでなく影の側面も含めて、立体的・多角的に一続きの流れを持つ歴史ある自分像をそこに見て、確かな自分らしさを取り戻す道標となるように──。 注)私の言葉を一部でも引用・転載する場合は、必ず「『作品名(悠冴紀

  作)』より」あるいは『悠冴紀の公式HPより』と明記してください。   自分の言葉であるかのように公開するのは、著作権の侵害に当たります!


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